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今回当館からは公文書の他、新規公開資料として新見文書と明治宮殿関係図を出展します。
この機会にぜひご覧ください。
資料名/著者・作者・出版者等/年代/資料番号
江戸城内中央にある小山、紅葉山には、家康を祀る東照宮をはじめとして、歴代将軍の霊廟が営まれていました。そしてこの霊地を将軍が参詣する時には、これに供奉する諸大名や、警備に当たる番方の旗本らの位置取りや歩く経路が事細かく決められていました。
図は、警備に配置される小普請奉行・目付らの入場経路や控え場所等を確認するための図で、13代将軍家定(温恭院)の霊廟が見え、14代家茂のそれがないところから、安政5年7月以降、慶応2年8月以前の図と推定されます。
天保14年(1843)9月、江戸城吹上で行なわれた将軍上覧相撲の記録。将軍側近に仕える側(そば)衆(しゅう)新見伊賀守正路は、その勝敗のみならず取組内容まで詳細に記録していました。
ちなみに結びの一番は横綱不知火vs大関釼山。釼山が左を差して下手投げにくるところを、不知火が前に出て押し切りで勝利しました。
明治元年(1868)10月、天皇が京都より着御し、江戸城西丸を皇居とすることになりました。 同月12日には西丸(=西城)を「行宮」(あんぐう)と呼ぶことが命じられましたが、その翌日「東京城」という呼称に変更されました。臨時的な皇居ではないという維新政府の意図がここに現れています。
そうとなれば、心配なのは江戸の華「火事」です。旧幕府では、江戸城の消防に大名火消とともに町火消を活用していましたが、当時十分な動員力を持たない新政府は筑前藩・高松藩に城の消防を命じ、ついで兵部省の管轄となり、明治2年8月には「西城火消方」は東京府の受持となりました。東京府は麹町や麻布など城付近の鳶を「東京城御消防人足」に任命、鑑札を交付していざという時に備えました。人足は常に城へ詰める「定詰」と、出火の際に駆けつける「欠付」に分かれていました。
左上の写真は、明治5年10月段階の東京城内消防道具の図です。纏(まとい)や提灯・法被(はっぴ)が描かれており、江戸の火消とほぼ同様の姿であったことがうかがえます。
明治6年(1873)5月5日未明、皇居女官部屋から出火、火は西丸の大半を焼き、ついに江戸以来の主要な建物をほとんど焼失、明治天皇及び皇后は赤坂離宮へ遷られました。
赤坂離宮は手狭であったため、各国公使など賓客の接待が悩みの種でした。そこで構想されたのが、右図の仮皇居内謁見所並会食所です。明治9年から御雇外国人ボアンヴィルの設計で建築に着手しました。しかし明治12年3月の地震で建物壁面に亀裂が生じ、耐震性への疑問が生じたことからついに建築中止となってしまいました。いわば幻の洋風宮殿です。
その後、皇居謁見所については種々論議が起こり、洋風案と木造日本建築案を巡って二転三転しますが、明治21年(1888)木造日本建築に洋風意匠を組み込んだ和洋折衷的な建物(=皇居正殿)が完成しました。
この図は、明治宮殿関係図(全107点)の内の一点で、『東京市史稿』皇城篇を編さんする過程で、当時宮内省に所蔵されていた「皇居御造営誌」(現宮内庁書陵部所蔵)から写しを作成したものです。写しではありますが、色彩・縮尺も含めて原図に忠実に作成されています。
このほか都立中央図書館・江戸東京博物館からも貴重な絵図、興味深い資料が数多く出展されます。