沽券地図~web版公文書館の書庫から

日本橋蛎殻町・人形町・小網町付近沽券地図現在の中央区日本橋蛎殻町、
同人形町、同小網町附近。
西郷隆盛の名前がみえる。

写真は、明治6年(1874)12月、東京府地券課が作成した東京市街地の地籍図である。正式には「沽券(こけん)地図」といい、皇居を中心に時計まわりに、当時の行政区画である第一大区から第六大区まで、全部で76枚ある。

沽券とは、元来土地の売買証文のことをいい、売買価格が必ず記してあるところから、その人の持つ価値、品格、体面といった意味に転じて、人が体面を傷つけられたときなど「沽券にかかわる」とか「沽券が下がる」などという慣用句が成立した。

それはともかく、和紙に墨で描かれたこの地図は、土地一筆ごとに町名地番と所有者の氏名、面積(坪数)、売買価格が記されており、明治初年の東京都心地域における土地利用状況が一目でわかる、歴史的にも大変貴重な資料ということができる。


沽券地図:拡大図(白黒)上の沽券地図の拡大図

江戸時代、城下町は武家地・寺社地・町地と、身分別に居住地域が厳密に区分され、その支配の系統も別々であったことはよく知られている。徳川幕府の崩壊後、新政府は、明治4年(1872)東京における従来の武家地、町地の区別を廃して、ひとしく地券を発行し、翌5年2月には土地の永代売買を解禁するなど、土地制度に関する一連の改革を実施した。改革の眼目は、東京の全面積の60%を占めた武家地を解体し、その土地の流動化と再開発を図ることにあった。

沽券地図は、こうした封建時代の身分制的土地制度から市場原理の支配する土地制度へと移行する大転換期に作成されたもので、東京が近代国家の首都として第一歩を踏み出したことの重要な証(あかし)ということができる。

武家地再開発の例として有名なのは現在の千代田区丸の内地区である。ここはかつて大名小路(だいみょうこうじ)とよばれ、大名屋敷が軒を連ねた場所であったが、明治初年陸軍に接収された後、明治23年(1890)、三菱社(現在の三菱地所)に払い下げられ、ロンドンをモデルとした近代的なビジネス街として変身をとげたことで知られている。

沽券地図表紙(左)、表紙裏面(右)沽券地図ケースの表紙(左)の裏には東京府地券課の文書(右)が記されている。