銀座煉瓦街関係書類~web版公文書館の書庫から

不燃化防災都市への試み・銀座煉瓦街の建設

ウォートルス自筆煉瓦書類

「火事と喧嘩(けんか)は江戸の華(はな)」という言葉のとおり、かつての東京は本当に火事の多い都市であった。明治の最初の20年間の火災統計をみても、焼失戸数千戸以上の大火が15回。そのうち12年(1879)と14年(1881)の2回は、焼失戸数が一万戸を超えるという大惨事となった。狭い地域に木造家屋が密集し、あわせて消火能力が未発達という都市構造上の欠陥が相次ぐ大火をもたらしたのだ。

銀座煉瓦街の建築は、こうした悪循環を断ち切るため、明治5年(1872)、銀座から築地一帯を焼いた大火を契機として、東京市中の家屋をすべて石造りとして不燃化都市とするという、政府内部で決定をみた壮大な構想の一環として実施された。

計画は、焼け野原となった現在の中央区銀座一~八丁目一帯の家屋をすべて煉瓦建築とし、大通りの道幅は、当時としては画期的な広さである15間(27メートル)、歩道と車道の区別を設け、街路樹を植えるというもので、御雇外国人フロランの意見を採用したものである。工事は土木技師ウォートルスが指導し、明治7年(1874)に完成した。

全市街地を煉瓦石で不燃化するという構想は、その後財政難で立ち消えとなったが、江戸の名残を色濃く残す東京に忽然と登場した西洋風の町並みは、多くの錦絵に描かれ、広く全国へ頒布されてわが国文明開化の象徴的存在となったのである。


煉瓦工事に関するウォートルス自筆メモ

しかし、こうした華々しさの陰で、木造家屋に畳という生活になれた日本人に煉瓦家屋は不評で、最初の頃はなかなか借り手がつかず、裏通りではずいぶん空家(あきや)が目立ったという。

地代収入が途絶えた地主たちは、その補填方を政府に迫った。政府の指導で煉瓦家屋を建築したのだからその責任をとってくれという強気の地主たちに、さすがの大蔵卿(大臣)大隈重信も閉口して、「伺(うかがい)の趣(おもむき)余儀(よぎ)なき筋(すじ)につき聞き届け候(そうろう)」と、要求を認めてやることにしている。今日の銀座の繁栄ぶりからは想像もつかないことである。

銀座煉瓦街は「煉瓦」とよばれて親しまれていたが、大正12年(1923)関東大震災で壊滅した。瓦礫の山と化した煉瓦街は、震災復興工事の過程で取り片付けられ、文明開化の名残とともに歴史の彼方へと姿を消し、モボ・モガが闊歩する新生銀座が誕生したのである。


ウォートルス自筆メモ訳文明治5年(1872)、煉瓦街工事に関する御雇外国人ウォートルスの自筆メモ(上)とその訳文(下)
東京都公文書館には、銀座煉瓦街建設に関する公文書が100冊余り残されている。