明治18年修正市区改正及品海築港略図~web版公文書館の書庫から

東京改造に関する最初のグランド・プラン

明治18年修正市区改正及品海築港略図

ロンドンやパリをモデルとして、東京を近代国家の首都にふさわしい都市に改造しようという計画は、明治17年(1884)、時の東京府知事芳川顕正によって発議され、政府の認めるところとなった。芳川は、当時のわが国の国力及び厳しい財政事情を考慮し、改造案にそえた上申書で、「いやしくも撫民(ぶみん。民をいつくしむこと)を以て自任し、府下(東京のこと)永遠の利益をはかろうとするものはまず市街全般改良の規模を定め、その後で、事の緩急をはかって緊急の場所から着手し、漸次他に及ぼし、遂には市街全部に普及させるべきである」とのべ、東京改造事業は、(一)全体計画の策定、(二)事業の優先順位、(三)漸進主義の三原則によって実行すべきだとしている。

政府は、翌18年、内務省内に東京市区改正審査会を設置、各省の代表と実業界から渋沢栄一、益田孝の二名を委員に選び、東京府の作成した原案について審議させた。「市区改正」とは、この改造事業が、「東京市区の営業、衛生、防火及び通運等永久の利便を図る」ことを目的とするところから名付けられたもので、今日の「都市計画」にあたる。

写真の地図は、「修正市区改正及品海築港略図」といい、審査会の審議結果をもとに作図された東京改造に関する最初のグランド・プラン(ground plan)である。「修正」とあるのは、東京府の原案を審議修正したことを意味し、品海(ひんかい)とは品川湾、つまり東京湾のことである。写真ではわかりにくいが、佃島の沖合いに一大埋立地が描かれ、大型船舶が接岸できるドックが設けられているのがわかる。

計画はその後紆余曲折をかさねたが、明治21年(1888)、東京市区改正条例の公布を見、翌22年事業開始。明治36年(1903)に計画を大幅に縮小して速成をはかり、大正8年(1919)、事業の完成をみた。大正3年(1914)、永井荷風が古き東京のおもかげをもとめて市中散歩をはじめ、「三田文学」に連載した随筆「日和下駄」は、市区改正によって東京のまちが変貌する様子をよくあらわしている。

完成まで三〇数年を費やした改正事業は、幹線道路の整備や水道改良にみるべき成果をあげたが、下水道、築港など未完成のままに終わったものも多い。しかも、この間における東京市街地の急激な膨張発展は、当初計画の規模をはるかに超えるもので、そのことが事業そのものを時代遅れとし、大正10年(1921)には、早くも都市計画法に基づくあらたな東京改造が模索されることになった。