浅草公園第六区の活動写真館~web版公文書館の書庫から

活動館

活動館正面図図1:活動館正面図

浅草公園第六区に関する資料として、今回は、活動写真館に関するものを紹介しましょう。

図1に示すのは活動館の正面図です。明治42年8月27日に、借地人から公園管理者である東京市へ建物新築願を提出し、同年9月3日に聞き届けられ、1か月後の10月7日に落成しています。場所は浅草公園第六区四号の4番乙、5~7番、23~25番です。

建物は木造トタン葺きで、建坪は67坪8合勺5才、220平方㍍強。間口は六間壱合五勺と書いてありますから11メートルくらい。奥行きはこの図面からは不明ですが20メートルもあったのでしょうか。高さは、棟上端まで51尺、つまり15.3㍍、屋根上にある避雷針のような飾り物まで入れて浅草公園第六区の建物高さ制限65尺(19.5メートル)以内というのをクリアしているようです。

建物の正面高いところに花束を抱えた二人の天使(エンゼル)らしき像が置かれているのは、このころの流行なのでしょうか。

三友館

三友館改築構造図図2:三友館平面図

図2は、三友館という活動写真館の平面図です。場所は、浅草公園第六区第四号の1~3番、4番甲、25~27番。明治42年9月23日、借地人から「常設観物活動写真興行」を行うため建物新築を許可してほしいと東京市に出願し、同年10月23日に聞き届けられています。建物の落成は12月27日でした。建坪149坪余(490平方メートル)。

三友館はすでにこれ以前から活動写真館として営業をしていますから、建物新築というよりは改築といった方がいいのでしょうか。図面にも「改築」と書いてあります。

原図は青写真ですが、分かりやすいように陰陽を反転したものを掲げました。内部は、階上と階下に分かれていて、階下の特等入口の傍に下足場(げそくば)という文字が見えます。トイレの立派さから判断して階上が特等席だと思われますが、土足厳禁だったのでしょうか。そういえば、三越百貨店もまだ下足を取っていた時代です。昭和30年代になっても、地方都市の盛り場には、1階は土間の椅子席で2階桟敷は畳敷きという映画館がまだ残っていたということです。ステージのことを「高座」と書いてあるのが時代を感じさせます。例によって建物の仕様書を紹介しておきましょう。

仕様書
一 木造亜鉛葺建家  壱棟
一 軒高さ地盤より桁峠迄参拾七尺五寸
一 棟高さ桁峠より拾七尺五寸
一 屋上装飾拾尺
但し総高さ地盤より六拾五尺
一 軒先は使用地の外へ出ざる様可仕候
一 道路に面せる箇所は一尺以上引去り、土台据付可申候
一 造作及床板は地盤落成御検査済の後取付可申候
一 外部白漆喰塗之事

建物の外観を描いた青写真も残っています。しかし、図面が消えかかっていてよく判別できません。よくよく目をこらしてみると、亜鉛葺きのドーム型屋根の四隅に塔が立つ洋館造りです。仕様書に「外部白漆喰塗之事」とあるように、防火のためでもあるのでしょうか、建物外部を白漆喰で塗り固めたため、一見西洋の白亜の殿堂のような印象を与えるものであったようです。

活動写真の人気ぶり

最後に、この時期の活動写真の人気ぶりを報じる当時の新聞記事を以下に引用しておきます。

△浅草公園

何と云つても遊楽の中心地―上野始め日比谷及び芝の各公園が稍(や)や寂寥の観に堪えざりしに反し、さしもに広き同公園、殊に四、五、六区の如き寸隙の余地なき其混乱名状すべくもあらず、(中略)而して其中で一番小僧諸君の人気に投じたるは活動写真にして、元祖とも見るべき電気館、三友館、富士館、活動館、大勝館、オペラ館等何れも平素五百人乃至(ないし)七百人の定員なるにも拘(かか)はらず、昨日は尠(すくな)きも八百人、多きは千人以上の見物折重り々々々割るゝ許りに詰込みたれば息苦しさ蒸熱さ死にも増して切ない事なり(後略)

(CD・ROM版読売新聞、明治42年7月16日「昨日の藪入り」から)
注)下足=脱いだ履物のこと。下足場は客の脱いだ履物を預かるところ
活動写真館の資料が綴じてある冊子
冊子名
明治42年・土地・公園地・第一種・7冊の5
分類番号
603.A2.7
マイクロフィルム番号
リール番号 東京市文書・明治期Ⅰ・明治42年(26)
コマ番号  780-1253