明治維新は「御一新」と呼ばれるように、種々の制度が大きく変わり、近代的な制度が次々と導入された時期です。しかし近代的な制度*1がいきなり始まったわけではありません。法令の伝達も、明治初年においてはまだ江戸時代のしくみを応用して行われていました。
江戸時代において法令伝達は、武家方・寺社方・町方と身分別に行われていました*2。町人に知らせる場合は、町奉行から町年寄→年番名主→番組内各名主→持ち場の町人へと、口頭または書面で伝えられていました。
書面による場合、各名主には本文の後に回達先の町名を列挙した「廻状」という形式で伝達され、回ってきた触れの内容は名主が書き写して手元に残し、町名に回覧の印をつけて次の町へ廻していました。
ここで紹介している史料でも、触れの冒頭に、まさに江戸時代さながらの「町触」という題がつけられ、触れの最後には町名が列挙されています。受け取った町名には○や合点が付されているのがわかります。江戸時代の形式を受け継いでいることがわかる興味深い史料です。
触れの伝達ルートを見ますと、東京府→世話掛・御用伺当番→各区添年寄・中年寄→各町となっています。実はこの触れが出される前月(明治2年3月)に名主は廃止され、代わりに中年寄・添年寄がそれぞれ50名弱任命されています。50名という人数からもわかるように、五十の行政区に中年寄、添年寄が各一名ずつ置かれました。さらに中年寄の中から世話掛として8人、世話掛肝煎として3人が任命されています*3。「当番」という文言から、彼ら世話掛が順番に東京府へ出勤し、出された触れをとりまとめて各区へ伝達していたことがわかります。
表紙に見える「弐拾三番組」とは、上記の五十区のひとつです。地域的には現在の千代田区麹町・平河町辺になりますが、まだ武家地・寺社地と町人地は別扱いだった*4ので、後掲の地図(弐拾三番組所属地域)でみるとかなり離れた地域が含まれています。
区の事務を取り扱ったのが「扱所」です。つまり、ここに紹介した史料は、明治2年の区の公文書と言うことになります。
この触れが出される10日ほど前、3月28日には、明治天皇が再度京都から東京へ着輦(ちゃくれん)しています。これらの触れは、それに伴って市中の治安を強化するために東京府から出されたもので、明治2年4月3日から9日にかけての3つの触れが含まれています。
東京府とは、江戸時代の町奉行所を引き継いだ南北の市政裁判所を合併して、明治元年(1868)8月17日幸橋内柳沢邸に設置された役所で、東京市中の行政を担当しました。触れの文言に「腰懸」という言葉がみられますが「白洲」(しらす)や「牢」も設けられ、構造的に町奉行所と変わらないものであったようです。都立中央図書館特別文庫には建物の絵図面が所蔵されています(「幸橋内東京府庁総地絵図」 東京誌料641-3)。
東京府内部の組織は、このころ頻繁に改変されているため、大変わかりにくいのですが、この触れが出された4月の時点で、訴訟方、記録方、監察方、郡政方、社寺方、検例方、常務方、上水屋敷改、囚獄長、出納方、橋方、町会所掛、消防方などに分かれています*5。
触れの末尾に見える町名と現在の地名は以下のとおりです。
資料の表記 | 当時の町名(現在の地名) |
---|---|
壱・弐 | 麹町一・二丁目(千代田区麹町一丁目) |
三 | 麹町三丁目(千代田区麹町二-三丁目) |
四 | 麹町四丁目(千代田区麹町三-四丁目) |
五・六 | 麹町五・六丁目(千代田区麹町四丁目) |
七・八・九 | 麹町七・八・九丁目(千代田区麹町五丁目) |
十 | 麹町十丁目(千代田区麹町六丁目) |
谷町 | 麹町谷町(千代田区麹町一-五丁目) |
隼 | 麹町隼町(千代田区隼町) |
山元 | 麹町山元町(千代田区麹町三-四丁目) |
平壱~三 | 平河町一~三丁目(千代田区平河町一丁目) |
木挽町替地 | 麹町平河町三丁目脇木挽町四丁目裏上納地替地(千代田区平河町一丁目) |
飯田丁 | 元飯田町(千代田区富士見一丁目・九段北一丁目) |
教授所 | 麹町平河町一丁目続教授所附町屋敷(千代田区平河町一丁目) |
三組町代地 | 湯島三組町続拝領屋敷切地代地(千代田区平河町一丁目) |
日枝門前 | 永田馬場日枝門前(千代田区永田町二丁目) |
元平河町 | 元平河町(千代田区平河町一丁目) |
亀有町代地 | 湯島亀有町代地(千代田区平河町一丁目) |