史料解説~旗本文書を読む

判元見届とは

判元見届とは何か。『国史大辞典』(第11巻 吉川弘文館)には次のように記されています。

武家の末期(まつご)養子(急養子)願出があった場合、幕府の役人を出願人の病床に派遣し、本人の生存を見届け、願書の真偽を調べさせること。万石以上(大名)については大目付、万石以下(旗本・御家人)については頭・支配、これらがいない場合は目付がこの役を務めた。

末期とは死に際、臨終のことです。こうした危急の状態に及んで提出された養子願の確認が「判元見届」にほかなりませんでした。家の相続という武家にとっての一大事に関わる職務だったことになります。
 この史料の場合は、末期の床にあるのが堀田錦弥、相続予定者が幸之助、判元見届の役が目付中川勘三郎です。
 新見正登は目付・中川勘三郎が勤めた判元見届の手続きを先例として書き留め、新見家の職務マニュアルを作成したことになります。

判元見届の現場

【史料1】は、寛政6年(1794)11月25日に旗本で寄合の堀田錦弥(一善、知行高五千石)が幕府に提出した急相続の願書です。錦弥は5月から体調が勝れず、それ以降重篤な病気に陥りました。もし養生が叶わなかった場合、弟の幸之助に家督相続を許して欲しい、と若年寄・目付に願っています。
 【史料2】は、目付中川勘三郎の書いた日記です。同日、中川が堀田家に出向いて錦弥と対面する場面が詳細に描かれています。
 まず、中川は病間の屏風の外側に出座して、「錦弥殿にご挨拶致します、かつ判元を見届けたく存じます」といいます。すると屏風の内側に控えている寄合伊東山城守が「錦弥殿は大病ですからご挨拶できませんし、手がふるえていますから、印を押すことができません。押印の際錦弥殿に添え手を致したいと思います」といいます。中川はこれを承知します。その上で願書、すなわち【史料1】で掲げた文書に印鑑が捺され、伊東から寄合肝煎松平内蔵允さらに目付・中川へと回覧されます。最後に文書を受け取った中川は「判元見届けました」と述べ、平癒した際には願書を取り下げるよう指示、養生するように申し達して「判元見届」は完了します。
 ちなみにこの例では、翌二十六日、堀田家の親類より錦弥死去が中川に知らされました。

家相続のからくり

この書留の急養子願の記録には、このような「手が揮えて花押が書けないので印形を押した」などの文言が複数見えます。これらは本人がすでに死亡していることを疑うべきでしょう。「手が揮える」という名目で親戚や同役が押印している可能性が高いのです。幕末に目付役を勤めた山口駿河守直毅という旗本が、維新後、判元見届について次のような証言を残しています。

親の生前中に願いを出して置かなければ、どんな親戚から願っても許さぬことです。・・・生前申し立つるに相違なきや否を見届けにいくのです。後世になりては、たいがいは既に死んでしまって冷たくなっても、屏風を立てその中に死んだ者を寐かして置いて、ちょうど生きているような体裁にして、こちらも生きているつもりで、親戚相揃って、それがこのたび大病につき何の誰を養子にして、縁続きならその由緒を書き、この者に家督を下さるように願い奉り候ということを書いて花押をするのですが、大病について花押ができぬということなら実印を捺すのです。・・・それを屏風の中で病人が捺すつもりで、親類の者が捺すのです。それが判元見届であります。
(『旧事諮問録』上「第五回 目付、町奉行および外国の事」 旧事諮問会編 進士慶幹校注 岩波文庫所収)

実際にはすでに亡くなっている人物に捺印させる。それを承知の上で生きているつもりで見届ける。こうした事が、時に「判元見届」という職務には起こったのです。
 こう考えると、ここでとりあげたケースでも堀田錦弥はすでに臨終しており、「手が揮える」という名目で、同役であった伊東氏が手を添えて捺印したという可能性が高そうです。

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