史料解説~八丈島と江戸(東京)

本湊町与市の八丈島帰島願  明治2(1869)年3月21日 

本史料は、本湊町(現中央区湊)に住む八丈島織物渡世与市が、曾祖父の法要と墓参りのために帰島の許可を東京府に願い出た文書です。今回は、この願書を読み解きながら、八丈島と江戸(東京)との関わりを見ていきましょう。

与市の実家は八丈島内の三ツ根村(八丈町三根)にあり、先祖は地役人を務めていました。地役人とは、島役人(幕府から派遣されて島の支配を行う役人。代官のこと。)と区別するためにつくられた呼称で、古くから島に居住し、流人の仕置や年貢の収納など村政全般を統括した者のことです。

与市が江戸で八丈島織物渡世をはじめるようになった契機は、祖父鉄之助の代に遡ります。鉄之助は宝暦12(1762)年に島を出て江戸で奉公し、10年後、本湊町に店を持ちました。与市は、曾祖父の百回忌の法要を機に島に帰り、商売の繁盛を先祖に伝え、疎遠になっていた親戚にも会おうとしたのでした。

八丈島の織物(黄八丈)は、江戸時代には贈答品として重宝され、御殿女中をはじめ庶民にも好まれていました。鉄之助が江戸にやってきた宝暦期は、江戸地廻り経済の成長期でもあり、黄八丈の需要も増しつつあったと思われます。こうした動向と相俟って鉄之助の商売も繁昌していったのでしょう。

東京府では、与市の帰島願いを韮山県・商法司に照会しています。これは、当時、八丈島が韮山県の管轄下にあったためです。韮山県では帰島に際し、流人からの書状や伝言を預からないことを命じています。商法司への照会は、与市が、八丈島に雑穀類を運ぶ君沢形船で帰村することになっていたためで、この船が商法司の管轄だったからです。順立帳には、与市の帰島願書とともに、東京府・韮山県・商法司の間でやりとりされた文書が綴じ込まれており、当時の行政手続きの過程を知ることができます。

* 君沢形船:安政元(1854)年10月、東海地震の影響で船を失ったロシア使節プチャーチン一行が、伊豆国君沢郡戸田村(現静岡県下田市)で船大工等を雇って建造したスクーナー型帆船のこと。地名にちなんで君沢形船と呼ばれました。その後、同型の船が造られ輸送船や練習船として利用されました。
* 島々御会所:寛政8(1796)年に、伊豆諸島の物産の取り引きを行うために、江戸鉄砲洲(隅田川河口西岸)につくられた伊豆国島々産物会所のこと。これ以後、この会所以外での伊豆諸島の産物の取り引きは禁止されました。
* 参考文献『江戸時代の八丈島』(東京都総務局文書課、昭和25年)
* 出典 与市の帰島願書に関する文書は、『明治二年 順立帳 五』(請求番号632-E2-9)と『明治二年 順立帳 六』(請求番号632-E3-1)に綴られています。