史料解説~将軍への披露 あれこれ

披露口

将軍謁見の儀礼

江戸幕府の年中行事は大名・諸士に対する定例の将軍謁見日を中心に構成されていました。年始の三箇日、五節句(人日〈正月7日〉・上巳〈3月3日〉・端午〈5月5日〉・七夕〈7月7日〉・重陽〈9月9日〉)、嘉祥〈6月16日〉、玄猪〈10月上亥日〉、そして毎月朔日・15日・28日を基本とする月次御礼です。このほか、相続・叙任・参勤などの際にも大名・旗本らの拝謁が行われました。

こうした将軍との謁見の場では、大名・諸士の家格に応じて、拝礼の場所、座次が厳格に決められていて、それは何枚目の畳に座るかというところにまで及んでいました。

武家官位や儀礼に関する研究が進み、このような実態は詳細に明らかにされてきました。しかしその場でどのような紹介、つまり「披露」がなされたかというのはその場の音声を録音する術がなかった以上、通常は明らかにできません。

「披露口」という史料

将軍の面前で大名の名はどのように披露されていたのでしょうか?この興味深い問題に答えてくれる古文書が当館に残されています。「披露口(ひろうぐち)」という史料です。

大名らが将軍に拝謁する際にその取り次ぎに当たり、儀礼を円滑に司ったのは、「奏者番」という役職の者でした。この「披露口」は奏者番による披露方法の覚書と考えられます。将軍と大名らの関係を確認する大切な儀礼の場、それはこの場を取り仕切る奏者番にとっても失敗の許されない緊張の局面だったでしょう。そのため、読み間違いのないよう、披露の方法、複数の読み方がある姓の確認などが書き留められたのです。

これをみると江戸城中で大名らがどのように紹介されていたか、どのように発音されていたかが明らかになります。

なお、「披露口」の表紙には斎藤摂津守(髙六千石)という旗本の名前が記されています。幕末期に小姓組番頭・外国奉行・大番頭なとを歴任した齋藤摂津守三理と推定されますが、彼自身は奏者番に就任したことはなく、この「披露口」を所持するに至った具体的経緯については明確ではありません。

【解釈】

○万石以上披露口
一、月次四品以上は「名」を披露する。「下司」は言わない。しかし「陸奥守」・「摂津守」・「紀伊守」は下司を付ける。百官名(国司以外の官職名をさすか)も「下司」を言わない。「造酒正」・「市正」はそのまま言う。ただし無官の「縫殿介」・「内蔵介」抔も「介」を言う。
一、御暇の節は誰でも「下司」を言わない。「苗字」・「名」だけである。
一、参勤其外御礼の面々は「苗字」・「名」・「下司」ともに言う。
一、節句に出る御礼衆の披露は「苗字」・「名」・「下司」ともに言う。
(人名の書き上げ、略)
右の通り、すべて「ショウ」とばかり言い、「ショウユウ」とは言わない。もっとも、大輔ハ「タユウ」と言う趣が先格留類に記してあるのに、なぜ「ショウ」とだけ言っているのか、順々に取り調べていったところ、そもそも、少輔は「ショウフ」で、「フ」の音は中に籠もるから(言いにくいから)「ショウ」と言っている。すでに、京では「ショウ」と言っている。大輔を、通俗は、「イ」を「フ」に加え「タイフ」と言う。その「タイフ」に倣って、「ショウイウ」と言っている。念のため右の趣をここに記して置く。
(人名の書き上げ、略)
前田(マヱダ)
右は「マヱダ」であるところ、とかく「マイダ」と唱える人々がいるので、同役衆(奏者番)の内、後味の悪い感じがするので、前田大和守へ尋ねたところ、「マヱダ」であるとのことなので、念のために、ここへ「掛紙」(貼り紙)をしておいた。

「披露口」における披露の仕方の説明

「披露口」では、拝謁者の披露の仕方を説明しています。

そこで、拝謁者の名前を、①「苗字」・②「名」・③「下司」の三つに分類しています。例えば「浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)」であれば、①の「苗字」に相当するのが「浅野」、②の「名」に相当するのが「内匠」、③の「下司」に相当するのが「頭」です。また「大和守」であれば、「大和」が②の「名」、「守」が③の「下司」になります。

披露の仕方は、(イ)月次拝礼の場面、(ロ)御暇拝礼の場面、(ハ)参勤交代その他御礼拝礼の場面、(ニ)節句拝礼の場面、というように場面によって異なります。「下司」をつける場合の国司名は、紀伊守は「きのかみ」、摂津守は「つのかみ」と読んでいたようです。

このような「披露」における慣行は元安芸国広島藩主浅野長勲によっても証言されています。白書院での将軍謁見の説明として、「国主に限って、老中の披露があるが、何の守、何の大夫とは言わんで、ただ安芸とか、薩摩とか、備前とかいうような風に披露する」というものです(浅野長勲「大名の日常生活」柴田宵曲『幕末の武家』[青蛙房])

また幕府制度史の基本文献も「諸侯拝謁の披露は通常苗字と称号を唱ふるも、正徳以降…例へば松平備前守は松平備前と称」すと書いています(松平太郎『江戸時代制度の研究』[武家制度研究会])。「披露口」はこうした実態を語る1次史料として重要な意味をもっているといえるでしょう。

「披露口」における難読の大名たち

続いて、大名家のうち難読であったり注意を要したりする苗字を挙げています。「三宅(ミヤケ)(三河国田原藩)・「松浦(マツラ)(肥前国平戸藩)・「増山(マシヤマ)(伊勢国長島藩)・「米倉(ヨネグラ)(武蔵国六浦藩)・「米津(ヨネキヅ)(出羽国長瀞藩)・「建部(タケベ)(播磨国林田藩)・「朽木(クツキ)(丹波国福知山藩)・「前田(マヱダ)(金沢藩支藩、上野国七日市藩)・「嶋津(シマヅ)」(薩摩藩支藩、砂土原藩)・「山内(ヤマウチ)(土佐国高知藩支配、土佐新田藩)です。

これらに加えて、意外なことに百万石の金沢藩前田家の「前田(マヱダ)」の読みも採りあげています。これは「兎角『マイダ』ト唱」える者が多かったからであるといいます。念のため、前田大和守(金沢藩支藩、上野国七日市藩)に事実を問い合わせたところ、「マエダ」である、と答えています。

「あれ?問い合わせ先は百万石の前田家じゃないの?」とお思いかもしれません。それは金沢藩は「松平」家であるから。徳川将軍家との縁戚関係上、金沢藩・加賀国大聖寺藩・越中国富山藩の前田家は「松平」を称していました。しかし、七日市藩の前田家だけは、初代前田利家の五男利孝から分かれているため、将軍家とは縁戚関係がなく、「前田」を名乗っていました。だから「前田」の読み方が問題となる家は七日市藩の家だけなのです。