史料解説~富くじの明治維新

【解説】

富くじとは

江戸時代、富くじは「富突」や「突富」、あるいは「富」と呼ばれ、あらかじめ番号などを記した富札を発行し、箱に同様の番号を記した木札を入れ、先端に針の付いた錐のような棒状のもので箱穴から突き上げるという独特の抽選方法をとっていました。

幕府は特定の寺社の興行だけこの富くじを認め、それ以外は私的な賭博行為として一切許可しない方針をとっていました。許可された興行は「御免富」として、幕府の寺社に対する助成策として位置付けられており、明和から天明期(一七六四~八九)までに第一のピークを、文化九年(一八一二)から天保十三年(一八四二)に禁止されるまでの期間に第二のピークを迎えました。ことに許可件数が大幅に増えた後者の時期には、二~三日に一度は江戸のどこかで興行しているという盛況ぶりでした。

なかでも元禄の頃から興行を続けている谷中の感応寺、境内が盛り場で賑わう湯島天神、郊外の行楽スポットとして人気のあった目黒不動の三ヶ所は、毎月一回のペースで興行が行われ、当時から「江戸の三富」などといわれるほど代表的な存在でした。

御免富は特定の寺社の大破・焼失などによる修復や再建を名目に許可され、主催する寺社が事前に興行日、興行場所、発行する富札の枚数、富札一枚の値段、当選金の規定などを定め、その内容を寺社奉行所に届け出ていました。興行場所は寺社の境内のお堂などを利用し、富札を売る場所も同じ境内の売り場と決まっていましたが、実際には興行を請け負う業者的な存在がいたようで、彼ら町人が興行の一切を引き受ける場合が多く、それゆえに市中には富札を“こっそり”販売する札屋が後を絶ちませんでした。

御免富は天保改革の一環で例外なく全面的に禁止されます。その理由は、第一に規制緩和によって許可を与えた寺社の数が激増し、それがかえって“飽和状態”をもたらし、富札が売れずに赤字興行となるケースが多発して、助成そのものの意義が失われてしまったことが挙げられます。また、第二に請負人の介在によって興行をめぐる利権の構造が複雑化し、市中の札屋が一向になくならないこと、第三としては富くじがブームになることによって庶民の射幸心を煽り、風紀が乱れるおそれがある、といったところです。

こうして落語などで題材にもなった“一攫千金の夢”をもたらす富くじは、全国から姿を消した“はず”でした。

頼母子講とは

ところが、幕府の禁止後も地方を中心に「万人講」や「観音講」「本堂修復講」など、「○○講」と題するものが多くの人を集めて賑わっていきます。この「講」という言葉には、寺院などの信仰を支える宗教的組織のほか、「頼母子たのもし」という相互的金融組織を示す場合もありました。

頼母子は「無尽むじん」ともいわれ、講員は発起人である「親」のもとに定期的に集会を開き、そのつど一定額を出し合い、それを抽選によって当たった一人に融通するというのが基本スタイルで、集会は講員全員が一回ずつ当選するまで開催される仕組みになっていました。

一見すると頼母子・無尽は富くじと全く異なるようですが、頼母子のやり方を、当選した講員から順に退会することとしたり、受け取れる金額に当選順による差を付けるようになると、これは立派な賭博になり、富くじに近くなっていきます。寺社が親となって「○○講」などともっともらしく名乗って興行すれば、それは幕府の禁止する「富くじ類似行為」になってしまうのです。

それゆえ、富くじは天保十三年以降も、あからさまに「突く」という行為をしなくても、実質的には名目を変えながら各地で行われていたということができます。

富くじ復活の機運と明治の禁令

今回取り上げた史料は、明治元年(一八六八)九月に東京府から出された触で、社殿やお堂が大破したための修復費用の調達を名目とした頼母子講を組織し、無届で興行を開催している者がいるとの風聞を指摘し、神社や寺院がこうした行為をすることは、人々から金銀を搾取するに等しいものであり、神官や僧侶にふさわしくない所業であると非難しています。また、今後もしこのような富くじ類似行為をする者が現れた場合には、容赦なく召し捕り、吟味の上で厳罰に処すことを述べています。そして末尾では、この内容を東京の社寺に周知するようにとしているのです。

なお、四谷塩町一丁目(現新宿区本塩町)の「御触帳」(東京都江戸東京博物館所蔵)には、この触が九月二十八日に通達されたことを記しています。また同史料には、翌年正月十四日に通達された同様の触を載せていますが、その文面では、富くじ類似行為を「民心を誘惑する」ものと断定していて、これに入れあげて破産する者も少なくないと述べているのです。

このように、明治新政府下の東京府では、幕府と同様に、富くじやそれに類似した行為を賭博とみなしてこれを禁じ、処罰の対象としているのがわかります。

ただ一点異なるのは、「社寺」という表現です。江戸時代の町触などでは寺院・神社を総称して「寺社」としていましたし、実際にこれらを管轄していたのは、「寺社」奉行です。「寺」すなわち寺院を上に持ってくるか、「社」すなわち神社を上に持ってくるかなどということは、一見ささいな違いのようにみえますが、実はそこに時代の変化が反映されていたのです。

江戸時代までは、一つの敷地に寺院と神社が混在するような、仏教と神道が融和した神仏習合の考え方が一般的で、仏教勢力の寺院の方が優位に立っていました。例えば「江戸の三富」の一つ湯島天神は、神社とともに喜見院という天台宗の寺院があり、むしろこちらが「別当」として影響力を持っていました。 これに対し明治新政府は、神仏習合を廃して神道を優先する体制への転換をはかり、神社と寺院を明確に分離させていきました。その過程で行き過ぎた対応をみせた地域では、「廃仏毀釈」が起こったことはよく知られているところです。

このように考えていくと、この触は明治新政府が宗教界再編にともなって、これまで富くじを主催してきた神社や寺院に対し、こうした行為を認めない姿勢を明示したものだということが分かります。そしてもちろん、町中での類似行為も従来通り禁止しているわけです。

富くじの「冬の時代」

民衆の射幸心をいたずらに煽り、破産へと導く悪しき賭博とされた富くじ。江戸時代には特定の寺社への助成という「善」なる大義名分がありましたが、明治以後はどうなったのでしょうか。

これを知る手がかりが同時期の『順立帳』にありました。今回取り上げた史料の後ろには、別件として次の三件の願書が書き留められています。

(1)「東本願寺突富興行」

(2)「新石町壱町目家持勝五郎外壱人同願」

(3)「深川冬木町家持喜平次同願」

右のうち、まず(1)は、三月に東本願寺から幕府の寺社奉行所に出された願書で、十年間毎月二度の興行を企画したものです。発行する富札は十二支各組三、五〇〇枚の合計四二、〇〇〇枚、一枚の価格が金一分、賞金の最高額が五〇〇両というもので、収益金の一部として毎年六〇、五四〇両を上納する旨を述べています。

次の(2)は、七月に新石町一丁目家持勝五郎と本革屋町地借の源右衛門が市政裁判所に対して出したもので、各藩が国元に帰国し、景気が悪化しているゆえに「市中賑ひ潤沢之為」に行うものだとし、湯島天神と浅草三社(浅草神社)の二ヶ所で同時開催を企画していました。こちらは鶴と亀の各組五、〇〇〇枚の富札を金一分で販売し、最高賞金額三〇〇両、二ヶ所の収益金から毎月合計二〇〇両を積み立て、上納するというものでした。

そして(3)は、深川冬木町の家持喜平次が七月二十七日に市政裁判所に提出した願書で、七~八年前から市中が不景気であることを理由に挙げて、町方の繁昌を狙ったものでした。富札は一枚の定価が銀七匁五分で十二支の組に分け、各組三、〇〇〇枚、合計三六、〇〇〇枚を発行し、最高賞金額は八〇〇両、毎年一万両を上納し、興行場所は茅場町薬師(智泉院)か深川八幡(富岡八幡宮)か本所回向院のいずれか一ヶ所を考えていたようです。

ことに(2)と(3)は町方の者が企画しており、彼らはかつての富くじさながらに請負業者となって、興行場所として人気のあったところを会場にする計画だったようです。

これらは同年十月、東京府によっていずれも却下され、出願者は十月二十五日付で請書を東京府に提出しています。その理由は人心を惑わす弊害が懸念されるからでした。

こうして富くじが寺院や神社の助成という名目に活用される時代は終わり、「○○講」という名目で類似の興行をすることも禁止されました。

富くじは以後長らく行われることはなく、まさに「冬の時代」に突入したといってよいでしょう。数十年の眠りを経て太平洋戦争末期に「勝札」として登場しますが、抽選日を待たずに敗戦となり、戦後「宝くじ」として復活をはたした頃には、すでに富くじは全く異質な過去の遺物となっていたのです。

【参考文献】

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