史料解説~猫、大八車に牽かれる

「日記言上之控」戌九月八日午刻

高野家文書「日記言上之控」

古文書解読チャレンジ講座の第一回で登場した「撰要永久録」と同じく、南伝馬町の伝馬役・名主を勤めた高野家の史料群(高野家文書)のなかの一つです。高野家は屋敷のあった南伝馬町のほか、通三丁目代地や南鞘町・南塗師町など複数の町名主も兼帯していました。

表題にもある「言上」とは、町奉行所の重要書類である「言上帳」に記載することを意味します。東京府が作成した明治二年(一八六九)から同四年までの「言上帳」については、古文書解読チャレンジ講座の第三回から第八回までで扱っています。

言上帳は、町奉行所で毎月一冊作成されるもので、実務担当者である当番与力が管理する書類(言上帳、御用留、捕者帳、書上帳、日記、言送帳、手形帳、牢帳、記事条例、当番心得留、旧記留、諸事留)のなかで筆頭のものでした。

町より奉行所へ上げられる日々の訴は、管轄する町名主が下調べを行い、町法に沿って訴状を認め、町名主・月行事・家持・家主などが附き添って月番の町奉行所へ出頭して届け出るという流れを踏みました。後日の証拠のために言上帳附を願い出る場合と、諸届のように言上帳に記載しない場合とがありました。

今回取り上げた史料は、元禄一三年(一七〇〇)から正徳元(一七一一)年までを編年体でまとめたもので、言上帳附を申請した際の名主の控え、もしくは町奉行所の言上帳から関係箇所を書き抜いたものと考えられ、九二九件に及ぶ事件・事故などが収載されています。

言上帳に収載されているのは、盗難窃盗、喧嘩口論、欠落出奔、捕り物や処罰、捨子迷子や行倒れ、跡式相続など日々の江戸の町で起こった出来事で、出稼ぎ奉公人や日雇などの下層民が主役といえます。そのことからも、元禄という時代の庶民の姿を垣間見ることのできる貴重な史料です。

この「日記言上之控」は、史料を翻刻したものが『南伝馬町名主高野家 日記言上之控』(東京都、一九九四年)として刊行されていますので、ご興味のある方はご覧になってください。

【参考文献】
  • 吉原健一郎「十七世紀の江戸町方史料(1)―『日記言上之控』(元禄十三年)―」(『日本常民文化紀要』第十四号)
  • 『南伝馬町名主高野家 日記言上之控』(東京都、一九九四年)

〝解放〟された猫

現在、多くの人が目にするのは、首輪で繋がれた犬、野放しの猫という光景だと思います。

しかし、江戸時代初期までの絵巻物や屏風絵を見ると、番犬として放し飼いにされていた犬とは反対に、猫は屋内で紐に繋がれていた様子がよく描かれています。奈良時代、経典を鼠から守るために中国より輸入されたと言われています。しかし、時が経つとともにペットとして重宝されるようになり、やがて首輪や紐で繋がれて飼われるようになりました。

〝犬は繋がれ、猫は放し飼い〟という光景の契機となったのは、慶長七年(一六〇二)に京都で発布された猫放し飼い令といわれています。当時、京都の都市化に伴って鼠害が大きな問題となっており、都市政策の一つとして京都町奉行所は猫の放し飼いを命じました(『猫の草子』、『時慶卿記』)。

それ以後も、猫は人気のある高価なペットとして愛好されており、他人に盗まれることを危惧した飼い主によって、依然として紐で繋がれていました。

この状況を一変させたのが、いわゆる生類憐み令に関連して出された犬猫の放し飼い令です。ここでは、貞享二年(一六八五)七月に出された触書(高野家文書「撰要永久録 御触事」/『東京市史稿』産業篇第七所収)の読み下し文を載せておきます。

 一、先日申し渡し候通り、御成り遊ばされる御道筋へ犬猫出し申し候ても苦しからず候間、何方の御成りの節も犬猫つなぎ候事無用たるべきものなり

 内容は、先達て将軍のお成りの際にその道筋へ犬猫を出しても咎めないという触書を出したので、お成りの際は犬猫を繋ぎ止めておく必要はないという触書が改めて出されたというものです。

【参考文献】
  • 『猫の草子』(『日本古典文学全集三六 御伽草子集』小学館、一九七四年)
  • 上田穣「歴史家のみた御伽草子『猫のさうし』と禁制」(『奈良県立大学研究季報』二〇〇三年)
  • 黒田日出男『絵画史料で歴史を読む』(筑摩書房、二〇〇四年)
  • 『東京市史稿』産業篇第七(東京都、一九六〇年)

日常の輸送手段、大八車の登場

大八車とは、江戸時代前期以降に江戸のほか城下町などで広く使用された荷車のことです。

江戸では当初、牛に荷車を牽かせた牛車や、動きやすいように車輪を下部に取り付けた長持(車長持)が使用されていました。しかし、車長持は、明暦の大火の際に道を塞いで混雑を助長したことにより、以後は使用禁止とされました。明暦の大火後には各地で多くの普請が行われため、迅速かつ容易に物資を運ぶことのできる輸送手段として、木挽町周辺の牛車大工が考案したと言われています。

名称の由来は、人間の八人分の運搬をするという意味で「代八」とも、車台の大きさが八尺(約二・四メートル)であったため「大八」とも言われています。

当初は牛も引きましたが、のちに人のみが牽くものとして流行しました。また、大坂などでは大八車は利用されず、板車(べか車)が流行しました。

【参考文献】
  • 『国史大辞典』
  • 『日本国語大辞典』

犬だけじゃない、生類憐み令

なぜ猫を牽いた三人の車引きは、牢舎にまで入れられることとなったのでしょうか。それは、五代将軍徳川綱吉の代表的な政策である「生類憐み令」によるものでした。

綱吉の生類憐れみ令というと、犬を連想する人も多いかと思いますが、「生類憐み令」とはこの時代に出された関連法令の総称であり、その名の通り犬以外に牛・馬・鳥類など、さらに捨子の禁止や孝行道徳など人も含めた「生類」を対象としたものです。

生類憐み令は、四代将軍家綱の時代に権勢を振るった堀田正俊が死去した翌年の貞享二年(一六八五)、先述した将軍が通る道筋に犬や猫が出てきてもお構いなしという町触が出されたことに始まるといわれ、綱吉の死去した宝永六年(一七〇九)までの間に一〇〇件以上の触れが出されました。

武断から文治という世の中の流れのなかで、殺伐とした気風を払拭し、仁や慈悲を期待するという施策です。儒教と仏教の思想に基づくものとされ、頂点に立つ将軍のもとで生類を幕府の庇護・管理下に置こうとする現れとも理解されています。

ただ、綱吉は強い将軍権力のもとでの中央集権的な国家像を構想していましたが、個人の思考のみでこれだけ社会を急変させることは難しく、世上の必要から生まれたものといえます。

意図的でないにせよ、生類である猫を殺生してしまった車引き人足らは、当時の法令にしたがって入牢を申し付けられたのでした。

今回取り上げた史料は短文ではありますが、大八車の登場、猫の解放、生類憐れみ令は、徳川の世という新しい時代、そのなかでも徳川政権確立期という時代を反映したものであり、まさにこの時代が産み出した〝悲劇〟を端的に伝えるものといえます。

【参考文献】
  • 塚本学『生きることの近世史』(平凡社、二〇〇一年)
  • 大石学編『徳川歴代将軍事典』(吉川弘文館、二〇一三年)

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