東京都公報の歴史 警視庁と東京府の場合

1.掲示と回覧時代(明治初期)

「明治二年 御触廻状綴込 ニ拾三番組扱所」表紙「明治二年 御触廻状綴込 ニ拾三番組扱所」表紙

明治時代のごく初期には、法令の周知方法として、旧幕時代そのままの書面や口頭による伝達方式=回達又は順達方式がとられていました。

しかし、維新創業の時にあたり、法令の数も量も旧幕時代に比べて飛躍的に増大してくると、こうした旧来の方式はたちまち行き詰まってしまいます。

封建割拠の体制を打破し、近代的な中央集権国家を打ち立てようとする若き明治新政権の意気込みは、日々発令される厖大な数と量の法令となって現れたわけですが、このことでまず最初にネを上げたのは、それを筆写して回覧しなければならない末端の行政機関でした。処理しきれない大量の法令が役所に滞留したのです。周知どころの騒ぎではありません。そこで問題解決の切り札として導入されたのが当時最先端の技術であった活版印刷術です。

たとえば東京府では、明治5年(1872)8月7日、それまでの法令筆写の手間をはぶき、寄留者にいたるまでもれなく法令が迅速かつ正確に周知徹底するように、活版摺りにして町々に配付することにしています。

こうしたなか、公布式も次第に整備統一されてきます。明治6年(1873)2月、太政官は、布告発令ごとに人民熟知のためおよそ30日間、適宜の地に掲示させることと、旧来の高札面は取り片付けることを命じています。

同年6月には、また、各府県へ諸布告が到達する日数を定め、到達した日から30日間掲示の後は管下一般に周知徹底したものと見なすと定めています。

これは後に改正されて、法令は各府県到達の翌日から管内へ触れ出すまで、謄写、印刷の日数を20日と定め、その翌日から30日を経過すれば一般に周知したものと見なすこととし、その日数内に管内にもれなく周知できるよう、各府県は適宜の方法を設けて実施するよう指示しています(明治7年4月)。つまり、各府県は、法令が到達した日の翌日から起算して50日以内に管内一般に周知徹底させる責任を負ったわけです。

東京府の場合、農村部では比較的問題はなかったようですが、世界有数の人口が密集する都市部では、法令の周知徹底には手を焼いたようです。9年(1876)には、このままでは法令の「遷延不達」は到底まぬかれないとして、朱引内(市街地)の各区に「触出地」(ふれだしち)という制度を導入しています。

これは、区内をいくつかの区域に分割して世話役(これを触出地という)を任命し、法令の周知に責任を負わせるというもので、世話役(触出地)には、地元の地主で相当の身元のあるものを選出するように指示しています。

この時制定された「布告触出受持地心得」によれば、世話役(触出地)は、自分の受持区域内を50戸を1グループとして、あらかじめ回覧する順序を定めておき、法令が発せられるごとに、触出地からはじめて、その順序にしたがって一々調印を取りながら回覧するものとされました。その回覧速度は1戸あたり30分間とされ、その時間内であれば、法令の筆写を希望するものは筆写してもよいが、時間内に筆写し終わらないような長文のものは、後日区務所で筆写させるように指示しています。また、世話役(触出地)は、受持区域内をすみやかに順達させるのが任務であって、その法令の内容の解説など質問に答える必要はなく、もし質問のある場合は区務所へ出頭させるようにとも指示しています。

触出地制度の導入と同時に、銀座2丁目にあった日報社(東京日日新聞発行所)に回覧用の布告類を傍訓(フリガナ)付きで印刷することを請け負わせています。

旧幕時代とちがって、明治時代の法令や公文書は漢語を多用し、漢学の素養のないものにはちょっと解読不能な難解なものとなっていました。たとえば違式詿違条例。皆さんは、これが正しく読めますか?

この条例は(いしきかいいじょうれい)と読んで、今日の軽犯罪法に該当する法律です。庶民の日常生活に関係の深い法律ですが、これを長屋の熊さん八さんに読み聞かせなければならない大家さんの困惑ぶりが目に見えるようです。

条文にフリガナをつけることで、すこしでも人々の理解を助けようという配慮が府庁のお役人にも働いたのでしょう。法令の字句が難解であることは、区民と直接接する立場にある行政機関としても頭の痛い問題だったと思われます。

2.掲示と新聞紙登載併用時代(明治13年11月15日~同16年6月末日)

以上、法令を周知徹底させるための東京府の取り組みをみてきました。旧幕時代の回覧方式を新時代に適応させるべく、一人ひとりに洩れなく法令を周知徹底させるための方法が律儀とも言えるほど熱心に模索されていたことがわかります。

しかし、法令はますますその数を増し、何百条にも及んで分厚い冊子をなすものも珍しくありませんでした。その改正もまた頻繁で、もはや、回覧方式でその周知徹底をはかることなど物理的にも不可能となっており、この方式は早晩破綻をきたさざるを得なかったといってよいでしょう。

明治13年(1880)9月13日、東京府知事松田道之は内務大臣松方正義に上申して、次のように述べています。

「布告布達はこれまで掲示又は回覧等の方法で管内の人民に告示してきましたが、回覧については数千部の印刷を必要とし、折角回送されてきてもその意味を解読することすら出来ない者も少なくありません。そんなわけで、回覧にあれこれ手間取っているうちに周知の期日を経過してしまったり、或いは回覧の途中で散逸してその所在すらわからなくなるものも出てくる始末です。このままではいたずらに経費を浪費するばかりで、その効果もさっぱり期待できません。今後はこの回覧方式をやめ、府下の数種の日刊新聞に登載することと郡区町村内にある掲示場に掲示することで布告式と定めたいと思います。この方式ならば、回覧に要する一切の経費が省けますし、新聞紙を閲覧できる者は、布達布告の内容を迅速に知ることができるという利点があります。新聞紙を閲覧できない者も掲示場でその内容を知ることができるので問題はありません。ただし、布告布達を新聞紙に登載することで公布式とすることは未だその前例のないことでありますから、一応お伺いする次第です。」(意訳)

これまでの回覧方式をやめ、日刊新聞紙への登載と掲示場への掲示により公布式としたいという提案ですが、これに対して松方内務大臣は9月29日付で、登載する新聞紙名はあらかじめ管内へ周知しておくようにとの条件を付して許可を与えています。

指定された場所への掲示と定期的に刊行する印刷物への登載をもって公布したものとみなすという、今日の公布式のあり方のルーツはこの辺りにあると言えるでしょうか。

内務大臣の許可を得た東京府では、明治13年(1880)11月15日から、布告、布達を管内に公布する方法として、区町村内への掲示と新聞紙への登載の方式をとることになりました。

区町村内の掲示場所は、その区戸長から公告することとなり、登載新聞紙は、東京日日新聞と読売新聞の2紙と定められ、のちに、朝野新聞、曙新聞、明治日報、郵便報知新聞、時事新報、自由新聞がこれに追加されました。

各新聞社への指令には、

  1. 新聞紙中に「東京府公布」の一欄を設け、国(官省使府)の布告布達及び東京府の布達を掲載すること
  2. 掲載の順序は、国(官省使府)の列次によるが、布告布達の到達の遅速によっては必ずしもこれに拘束される必要はない

とあります。「東京府公布」欄は、後に「官令」欄と改められました。

警視庁(当時は東京警視本署)も同日から、区町村への掲示と新聞紙への登載方式を採用しました。掲載新聞紙は、東京日日新聞、朝野新聞、郵便報知新聞、読売新聞、東京絵入新聞、いろは新聞で、東京府の場合と若干異なります。

3.掲示と官報本紙登載併用時代(明治16年7月~同18年12月)

明治16年(1883)7月1日官報が発行されると、警視庁と東京府の布達類もその本紙に登載されることになりました。区町村への掲示とこの官報への登載をもって公布式と定められたのです。

当庁布達告示は区町村掲示と新聞紙掲載とを以て管内に公布せし処、本年七月一日より布達は官報に登載し、区町村に掲示し、告示は官報に登載するを以て公布式と改定す(明治16年6月30日、警視庁布達甲第11号)
布告布達告示は区町村掲示と新聞紙登載とを以て管内へ公布せし処、本年七月一日より布告布達は官報に登載し、区町村に掲示し、告示は官報に登載するを以て管内公布式と改定す(明治16年6月28日、東京府布達甲第34号)
本年甲第34号布達の内告示は本月十五日より更に官報に登載し、区町村に掲示するを以て管内公布式と定む(明治16年9月14日、東京府布達甲第50号)

4.官報本紙登載時代(明治19、20年)

その後警視庁、東京府ともに、明治19年(1886)1月以降は区町村内への掲示をやめ、官報本紙への登載だけで公布式と定めました。

当庁布達の儀は官報に登載するを以て公布式とし、別に区町村に掲示せず(明治19年1月7日、警視庁布達甲第4号)
当庁の達は自今官報に登載し、別に配布せず(同年同月同日、警視庁達乙第1号)
当庁布達告示の儀は自今官報に登載するを以て管内公布式とす(明治19年1月4日、東京府布達甲第1号)
当庁の達は自今官報に登載し、別に配付不致(同年同月同日、東京府達丙第4号)
布告布達告示自今官報を以て之を示し、区町村に掲示せず(同年同月9日、東京府布達甲第7号)

5.官報附録・警視庁公文、東京府公文時代(明治21年)

明治21年(1888)には官報本紙への登載をとりやめ、附録として警視庁公文と東京府公文が発行されるようになりました。この附録時代に警視庁公文と東京府公文は102回発行されていますが、今日現存が確認されているのはわずかに2部にすぎません。

6.官報附録・警視庁東京府公報時代(明治22年1月~同27年3月)

「公報」という名称がはじめて登場しました。明治22年(1889)1月から27年(1894)3月まで、官報附録として発行されたものです。

明治22年5月以降は、東京市の条例、規則類もこの公報に登載されます。東京市は明治22年5月1日成立しましたが、市制特例という法律によって、市長も市役所も置かず、市長の職務は東京府知事が行い、市役所の事務は東京府庁が行うという変則的体制をとっていました。したがって、独自の公報をもたず、市の条例規則類は警視庁東京府公報へ登載することで公告式としたのです。

官報附録時代の警視庁東京公報の号数は以下のとおりです。

明治22年1月4日(第1号)~明治27年3月31日(第1176号)

7.官報本紙登載・警視庁公文、東京府公文時代(明治27年4月~同30年3月)

明治27年(1894)4月から明治30年(1897)3月までは、公報を廃止して、警視庁公文も東京府公文も再び官報本紙へ登載されるようになります。東京市公文も同様、官報本紙へ登載されたことはいうまでもありません。

8.新聞紙附録・警視庁公文、東京府公文時代(明治30年4月~同31年9月)

明治30年(1897)4月からは官報本紙登載をやめ、新聞紙の附録として警視庁、東京府それぞれの公文を発行することとしました。

警視庁は、毎日新聞、東京朝日新聞の附録として警視庁公文を発行し、東京府は当初東京日日新聞、読売新聞、毎日新聞の3紙の附録として東京府公文を発行しましたが、4月25日に東京日日新聞を取りやめ、翌5月15日から都新聞に変更しています。以後この3紙の附録で明治31年(1898)9月まで発行を継続します。

東京市も同様に新聞紙附録として東京市公文を発行しましたが、このことについては後に述べます。

東京都公文書館には、このうち毎日新聞附録のものが残っています。

9.直営による警視庁東京府公報時代(明治31年10月~昭和18年6月)

警視庁東京府公報

明治31年(1898)10月1日、それまでの官報附録や新聞紙附録のいわば間借り生活をやめて、はじめて警視庁と東京府が直接に公報を発行し、その公文を公報に登載することで公布式と定めました。ただし、同じ公報に登載するのでも、警視庁と東京府ではその方式にすこし違いがありました。

警視庁の場合は、公報登載だけで公布式と定めたのに対し、東京府の場合は、公報に登載したうえで、さらに管下の島庁、郡市区役所、町村役場、島役所及び村役場にその公報を配付し、これを各掲示場に掲示させることで公布式と定めたのです。東京府のこの方式は昭和9年(1934)まで続き、同年5月10日、東京府令第20号によって、公報登載のみで公布式とすることに改められています。

本年十月一日より警視庁東京府公報を発行し、警視庁令は同日より右公報に登載するを以て公布式と定む(明治31年9月25日、警視庁令第28号)
警視庁告示は本年十月一日より警視庁東京府公報に登載す(同日、警視庁告示第96号)
警視庁告諭は本年九月一日より警視庁東京府公報に登載す(明治32年9月1日、警視庁告示第70号)
当庁乙号訓令は本年十月一日より警視庁東京府公報に登載す(明治31年9月25日、警視庁訓令乙第3号)
当庁公文は来る十月一日より警視庁及当庁に於て公報を発行し、之に登載して島庁、郡市区役所、町村役場、島役所及び村役場に配付し、尚ほ各掲示場に掲示せしむるを以て公布式と改定す(明治31年9月25日、東京府令第71号)

また、この明治31年10月1日は、市制特例が廃止され、東京市が、それまでの東京府との関係を清算して、自治体として完全に独立した日でもありました。東京市長が選任され、東京市役所が設置されて完全な自治体としての第一歩を歩み始めた日で、今日の「都民の日」の元となった日でもあります。

東京府にとっては、公布式、公告式の点で、それまで共同歩調をとってきた東京市と正式に袂を分かった日であったといえるでしょう。

ここで、直営時代の警視庁東京府公報の号数をみてみましょう。

改元のたびに号数を新たにしていることがわかります。なお、この中には号外を含まないことはいうまでもありません。