資料1の写真に撮影されている内容を確認してみましょう。
まず、画面上方を横切る道路の向こう側に複数の店舗が立ち並んでいることがわかります。これらの店舗には看板が掲げられており、業種が判別できるものもあります。一方、画面手前には建物のない場所があり、耕作地として利用されているようです。その奥には先ほどの道路に面して屋台らしきものも見られます。
また、画面の枠外には、「2」という数字や、「2区」及び「四谷新宿」といった文字列が書き込まれていることに気が付きます。これらは、このフィルムが戦災復興土地区画整理事業第2地区を撮影したものであることを示しています。
戦災復興土地区画整理事業第2地区は、現在の新宿区新宿一丁目及び新宿二丁目の全域に新宿三丁目や四谷四丁目の一部などを加えたエリアが対象範囲でした注1。現在の外苑西通り近辺を東端とし、靖国通りと新宿通りに挟まれた区域がおおむね該当します。本地区の西側には新宿駅周辺を対象とした第9地区があり、第2地区の西端は第9地区と接続しています。
第2地区の土地区画整理事業は、昭和21年(1946)4月に都市計画決定され、同23年6月の事業計画決定を経て実施されました。事業の目的には、「幹線、補助線の拡幅」や「整然とした街廓の造成」などが挙げられており、外苑西通りや靖国通りの拡幅、新宿公園や花園公園の整備などが行われています注2。
当館には、戦災復興土地区画整理事業に関する記録がほかにも残されています。今回取り上げた写真については、これらの所蔵資料を参照することにより、対象地区内のどのポイントをいつ撮影したものであり、なぜこのような写真をこのとき撮影したのかといったこともある程度読みとくことが可能です。
まず一つ目の手掛かりは、建設局区画整理部が昭和28年(1953)に発行した『東京都復興土地区画整理事業概要』です。本冊子には、第2地区における「街路築造と軌道変更」の記録として、今回の資料と同じ写真が説明付きで掲載されています注3。それによると、この写真は「環状5号街路築造直前の状況」を撮影したものであるとされています。
手掛かりとなる資料はもう一つあります。同じく建設局区画整理部が昭和31年(1956)に製作した記録映画「復興のアルバム」(東京都公文書館デジタルアーカイブへのリンク) です。本作品は東京都が実施した戦災復興土地区画整理事業の成果を解説する内容となっており、都電の「軌道移転」を紹介した場面に、今回取り上げた写真と共通したアングルからほぼ同じ状態の街並みを撮影したカットが含まれています(資料2)注4。この映画からは、土地区画整理事業の結果、画面中央に並ぶ建物を撤去し、画面奥に向かって新たな道路を築造したことと、その道路上に都電の軌道を敷設したことが確認できます。
当時、新宿駅周辺には都電の停留所が設けられており、複数の路線が乗り入れていました。このうち、新宿通りには四谷見附方面から新宿駅前へ向かう11系統と12系統の共用軌道がありました。ところが、昭和24年4月に新宿駅前停留所の位置が靖国通りへ移され、駅前まで新宿通りを直進していた上記両系統も、新たに築造された道路を経由して途中から靖国通りを走行するルートに変わります注5。『東京都復興土地区画整理事業概要』で述べられている軌道の変更・移転は、このことをさしています。実際、「復興のアルバム」では、新たに築造された道路上を通る都電11系統の車両が映されています(資料3)。
以上を糸口として、今回取り上げた写真が撮影された時期や場所の絞り込みをすると、おおよそ次のようになります。
(1)撮影時期
「復興のアルバム」では、資料1の写真とほぼ同じ状態の街並みを映したカットに「昭和24年」と字幕が表示されています(資料2)。その年の春には都電の軌道移転が行われていることから、写真が撮影されたのは昭和24年(1949)初め頃であると推測されます。
(2)撮影場所
『東京都復興土地区画整理事業概要』から、新たに築造した道路は環状5号線であることがわかります。本線は、昭和21年3月に都市計画決定した「東京復興都市計画街路」において「5ノ1」とされている路線にあたり注6、現在も一部整備が続いている幹線道路です。このうち、昭和20年代に築造されたのは、新宿通りとの交差点から靖国通りとの交差点に至る区間でした注7。
幸いなことに、当時の街並みが細かく記された大縮尺の地図である「火災保険特殊地図」が現存しています。これによると、昭和24年春の段階で築造されたのは都電の軌道分のみであり、追って道路の拡幅が行われたようです注8。
また、この火災保険特殊地図を用いると、撮影場所のさらなる絞り込みが可能です。あらためて資料1の写真を見ると、画面中央に並ぶ店舗には看板が掲げられており、右から葬儀屋、服飾店、不動産屋であることがわかります。加えて、葬儀屋のさらに右側には「……海上新宿ビル」とある建物が写されています。これらをふまえ、昭和24年5月25日作成の火災保険特殊地図を調べると注9、新たに築造された道路と新宿通りが交わる地点の東側に、葬儀屋と日本火災海上保険株式会社の建物注10が描かれています(資料4)。あわせて、新造された道路の西側には、不動産屋の左側に並ぶ店舗と同じ屋号の建物も記されています。以上により、資料1の写真は新宿通りの南側から環状5号線の築造予定地を撮影したものであることがわかります。
第2地区のフィルムの中には、軌道の工事中(資料5)(資料6)や変更後(資料7)(資料8)の同地点を撮影した写真も残されています。これらの写真をあわせて見ることにより、この場所でどのようにして道路や軌道が整備されたか、その過程を具体的にたどることもできます。
ところで、道路予定地にあった建物は工事の過程で順次撤去されたわけですが、取り壊すのではなくそのままの状態で別の場所へ移転した建物もありました。そのことがよくわかるフィルムが残されています(資料9)。
これを見ると、通り沿いに左から服飾店、不動産屋、書店の順で建物が並んでいることが確認できます。このうち、服飾店は道路予定地にあった店舗と同じ看板を掲げています。先ほど参照した昭和24年5月25日作図の火災保険特殊地図によると、新宿通りと環状5号線が交差する地点の南側沿道に、東から順に服飾店、不動産屋、書店の並びで建物があることが記されており(資料4)、撮影地点はこの場所であると推測されます。
また、少なくとも服飾店の建物は、そのほかのフィルムを参照することで、元あった新宿通り北側沿道から南側沿道へ曳家という方法により移転したものであることもわかります(資料10)(資料11)。これらには、夜間に新宿通り上を横断する建物の様子が撮影されています。こうした方法による建物移転は戦災復興土地区画整理事業の各施行地区で行われており、「復興のアルバム」には川の上を渡り対岸へ家屋を移転させた事例が取り上げられています注11。
昭和26年9月作図とある火災保険特殊地図によると注12、この時点で軌道のすぐ脇にあった葬儀屋などの建物もなくなり、道路の拡幅が完了したことがわかります(資料12)。そして、建物が移転した先にあたる新宿通りの南側では、新たに盛り場が形成され始めています(資料13)注13。ここは丁度、資料1の写真が撮影された段階ではまだ建物がない、手前の開けた場所にあたります。
このように、今回紹介した写真資料からは、作成組織や撮影対象となった事業に関する記録などの手掛かりを用いることで、様々な情報を読み取ることができます。戦災復興土地区画整理事業フィルムは、東京の街並みの変遷を目で見て具体的に確認できる貴重な歴史資料であるといえるでしょう。