本資料は、玉川上水の羽村堰破壊の知らせを受けて、羽村取水口に設置されていた出張所に派遣された第二課土木掛(玉川上水管理を担当)の職員が課長宛に提出した報告書を、東京府知事から内務大臣、警視総監、神奈川県知事に内申した公文書です。
多摩地域では、西南北多摩郡の東京府移管をめぐって賛成派と反対派に分かれて演説会の開催や、帝国議会や内務大臣への請願書提出など活発な運動が展開されていました。とりわけ、西多摩郡や南多摩郡の町村では町村長や助役が辞職して役場が封鎖されてしまうなど混乱が生じ始めていました。そのような状況下で、2月26日深夜から翌27日明け方に、玉川上水取入口の羽村堰の施設が破壊される事件が起きました。この事件は、西多摩村注1の村民が出張所へ通報したことで発覚しました。出張所はすぐに修繕に取りかかるとともに、西多摩村巡査駐在所に取締りを依頼、東京府第二課へ電報を打ちました。それを受けた第二課は、直ちに土木掛の上村常知技手と杉野千太郎掛員、新宿警察署の巡査を派遣し、神奈川県と連携しながら、玉川上水の警備強化に努めました。
出張所に派遣された上村技手と杉野掛員は警備強化と併せて、課長宛に定期的に近況報告を行っています。本資料は3月6日午前3時、5回目の報告書(以下「報告書」という。)で、内容を重く見た東京府知事富田鉄之助は、内務大臣、警視総監、神奈川県知事に内申しました。
本資料によって、西多摩郡青梅町において3月5日に開催された反対派による演説会や出張所のある西多摩村、運動の担い手となった「壮士」たちの具体的な様子がわかるだけでなく、東京府が玉川上水の警備と併せて反対派の動向を把握しようとしていたこと、さらにその動向を内務大臣や神奈川県知事と共有していたことも判明します。
「壮士」とは、1880年代の自由民権運動において活動した政治活動家をさす言葉です。明治14年(1881)に国会開設の詔が発布されると、自由党や改進党などの政党が組織され、「壮士」たちは政党に所属して演説会に参加、弁士(講演・演説する人)の演説を盛りあげ、政府による弾圧に抵抗しました。帝国議会で審議が始まると、多摩地域の「壮士」たちは、賛成派と反対派に分かれて、活発な運動を展開しました。
報告書の前半では、西多摩警察署の内偵による3月5日に開催された演説会の様子が伝えられています。演説会は、青梅町にあった劇場初音座にて開催され、参加者750名、代議士(衆議院議員)の瀬戸岡為一郎注2の他、8名が演説を行っています。演説会では、村役場の閉鎖など行政機関を妨害すること、管轄引継を延期させて、その間に延期請願書を調製すること、3月7日に八王子町にて一同会合することを決議して散会しています。
上村等は、参加者のほとんどが交渉上止むを得ず参加していること、最も参加者が多く過激な村は西多摩村であると分析しています。また、請願委員が3月7日の八王子の会合注3で決まると推察しています。
なお、3月5日の演説会の様子は、自由党の機関誌である『自由』(明治26年3月7日付)でも報じられています。記事では辞職した町村長をはじめ2,000余名が参加し、仮会長に中西仲太郎(引田村、現あきる野市)を選出し、1万余名が調印した陳情書を内閣に奉呈する上京委員を選出して、「一、三多摩管轄変換復活期成同盟事務所を置き、当初の目的を達成すること」、「一、一郡に4名の交渉委員を置き、南北多摩郡と一致の運動を謀ること」、「一、各町村に1名の運動委員を置き、通信の事務を担当すること」の3か条を決議し、会議を終えたとされています。会議後は辞職した五日市町長の馬場勘左衛門などが演説を行い、「胸襟を開き管轄替に関する利害得失を討究」して散会したとされています。報告書における請願委員とは、記事でいうところの「交渉委員」をさすと思われます。記事では参加者も2倍以上で大々的に報じられていますが、今回とりあげた資料からは、東京府側の視点から演説会の様子が読み取れます。
報告書の後半では、西多摩村での散会後の様子が伝えられています。西多摩村では一小会を開催し、「壮士」を使って賛成する者への脅迫・襲撃の気配があると指摘しています。とりわけ、西多摩村出身の指田茂十郎注4は賛成派から反対派へ転向したとして疑いの目が向けられており、指田本人もこれを察知して警戒しています。指田は、西多摩村出身の多摩地域の名望家の一人として神奈川県会議員を務め、東京府の玉川上水の管理にも関わっていました。また、警察も「暗々」に警戒していることから、事件が起きないように注意を払っていたと思われます。
以上、これらのことから、移管が決定した後も反対派は活発な運動を行っていたこと、当時の多摩地域では「壮士」による過激な行動も辞さないような雰囲気があったこと、一方で、移管が決定してしまった以上、請願委員を設けて過激な行動を控えて、次の帝国議会で訴えていこうとする穏健派も存在したことがわかります。つまり、反対派の中でも移管後の対応を巡って揺れていたのです。
今回紹介した資料のほか、「西多摩郡玉川大堰毀損事件」(東京府文書 請求番号:620.D4.08)にも別日の報告書が綴られています。興味のある方は、ぜひご来館の上、資料をご覧ください。