小笠原嶋日誌~web版公文書館の書庫から

小笠原嶋日誌(表紙)

写真は、小笠原島東京府出張所が作成した「小笠原嶋日誌」である。年三回の定期航海船で出張所から府知事あてに送付してきたものを、本庁庶務課で製本したもので、明治14年(1881)10月からはじまり同19年(1886)5月まで全13冊からなる。
*情報検索システムでの資料種別【江戸明治期史料】

明治9年(1876)3月、明治政府は、その領有をめぐって西欧列強の注視のまとであった小笠原島に日本の統治権を確立するための措置として、同島を内務省直轄とし、各国に対して日本の統治権を正式通告するとともに、同10年(1877)には父島扇浦に内務省出張所と官舎を建設し、幕末以来中断していた開拓事業を再開した。

明治13年(1880)11月、小笠原島は内務省の所管を離れ、東京府へ編入された。同時に内務省出張所は廃止。かわりに東京府出張所が設置され、初代所長に藤森図高が任命された。藤森は内務省出張所時代から困難な開拓事業に尽力した人物で、出張所長に就任してわずか七か月後の14年6月、36歳の若さで病死した。その墓は父島奥村の通称咸臨丸墓地にあり、顕彰碑が、扇浦の「開拓小笠原島之碑」の近くに建てられている。

小笠原嶋日誌の作成は、藤森の後任、二代目所長南貞助の発案になる。南は、明治14年11月、府知事にあてた上申書で、「海をへだてて遠隔の地にある出張所と府庁との意思疎通を綿密にするには年三回の郵便船による事務文書のやりとりだけでは充分でない。今後は出張所の業務を中心に日々の出来事を記録した日誌を調製し、それを郵便船毎に送付するので、知事一覧の上は各課に回覧して、小笠原島に対する庁内の理解を深めるようにしてほしい」とのべている。

日誌は、つまり出張所事務を円滑に遂行するための庁内向け広報紙の役割をもっていたわけで、出張所の日々の事務のほかに、島内の開墾状況などさまざまな出来事が記録されており、明治前期の小笠原島事情を知るための基本資料となっている。

日誌に附録としてつけられた「明治十四年小笠原島東京府出張所一覧概表」によれば、島の人口は、内地移住民364人(男248人、女116人)、欧米系住民53人(男26人、女27人)で、出張所の職員数は33人。一年間の入港船数は内国船が4艘(4回)、外国船が4艘(8回)となっている。

小笠原嶋日誌(本文)