宝暦度漂舶南京人之像~web版公文書館の書庫から

宝暦度漂舶南京人之像

前話に続き、東京都文化財に指定されている古文書をご紹介します。「八丈島古文書類」(請求番号656-08-01-05)所収の「宝暦度漂舶南京人之像」です。

黒潮の奔流が西から東へと流れる太平洋上に、南北に点々と伸びる伊豆諸島があります。今から250年も前の宝暦3年(1753)12月10日、八丈島の大賀郷に一艘の船が漂着しました。

当時流人として島に居た和田藤右衛門を間に立て、筆談で取り調べがはじまりました。和田は蜂屋民部支配下の御徒組の武士で、学問の素養があったのです。

その結果この船は唐の船で、浙江省から長崎に向かう途中で台風にあい、舵と主帆柱を失い漂流し八丈島に漂着したものであることが判りました。船主は高山輝及び程剣南といいました。

彼らを含めた乗組員71名全員を救助し、荷を揚げ、船主と供者は島の古刹長楽寺に、他の者は大賀郷の前崎浦に小屋を造って住まわせました。取り調べの結果は、地役人から幕府へと伝えられました。漂着者達は、1か月ほどで持参の食料を食べ尽くしてしまい、島側では幕府から救援の食料が届くまで、非常備蓄の「御囲米粟」を供給して彼らを支えています。その後幕府から、彼らを下田に移す命が下り、宝暦4年の5月~6月に下田へ、更に7月には下田から長崎へ、その後帰国しています。

本事件に関する大変珍しい資料が、乗組員全員の姿を描いた本図です。実は漂着船が着く前年の宝暦2年に、狩野派の流れを汲む狩野春潮が八丈島に流されています。「八丈島流人帳」によれば春潮は「御絵師狩野春賀倅」とあり、また武田恒夫著『狩野派絵画史』によれば、稲荷橋狩野派と呼ばれたこの派は、春賀の代で絶えたと記されています。この春賀倅の春潮が71名の乗組員を描いているのです。春潮は島で没し、狩野派の絵画史上には登場しません。しかし流刑地で描いた71名の漂着者の絵は、さすがにプロの絵師の力量を感じさせてくれます。

遭難記録は不幸な出来事の記録です。しかしその記録のおかげで、例えば本事件でいえばその時点に居合わせた現場の関係者が最善の努力をもって任にあたり、無事祖国に送り届けられるまでの出来事を甦らすことができるのです。またそこからは、緊急時における貴重な教訓も得られます。しかも本事件が機械的な数字データの羅列の域を越えて訴えてくる一因に、春潮の絵の存在があります。

実在した71名の姿には、過去の歴史的な出来事を絵空事とさせない迫力があります。春潮の絵の果たす役割は、大きなものに思えてなりません。いつの日かこの絵の存在を、恐らく現在は中国各地に広く住まわれているはずの末裔の方々に、知っていただける日が来ることを願わずにはいられません。