時代の中で史料を読む~生類憐み政策と都市江戸

生類憐み政策と都市江戸

五代将軍綱吉(1646~1709)といえば犬公方とも呼ばれ、すぐさま生類憐み令(しょうるいあわれみれい)を想起される方も少なくないでしょう。江戸期に発令された諸政策、法令の中で最もよく知られているものかもしれません。

貞享二年(1685)七月、将軍御成りの節、犬や猫を出していてもかまわない、犬猫を繋ぐことは無用とすべし、と令されたのを端緒に、綱吉死去直後の宝永六年(1709)一月に廃止されるまで「生類憐み」という政策基調が機能し続けました。

この一連の法令が出された動機については、これまで根拠不明な次のような説明が半ば通説のようにされてきました。

それは、天和三年(1683)に世子を亡くしてから綱吉が嗣子に恵まれないのは、前世で殺生をした報いであり、戌年生まれの綱吉は特に犬を大切にするようにという大僧正隆光の進言を容れたというものです。こうした説の影響もあってか、従来生類憐み令については犬愛護令がとりわけ強調され、又、その評価についても綱吉個人の性格に起因する専制的な悪法といった、やや一面的な評価が下されてきました。

しかし近年の研究では、生類憐み令という単発の法令が出されたわけではないことから、一連の施策を「生類憐み政策」として捉え、前後の政策との連続性や、綱吉政権の他の施策との関連にも留意して、改めて政策の意義を問い直そうとする動きが進んでいます。

実際、江戸町触から「生類」の中身を検証すると、捨て子禁止や行き倒れ人保護といった弱者対策も含まれていますし、他方、犬・馬等を中心としながら、猿・鳥類・亀・蛇、きりぎりす・松虫から、いもりに至るまで、実に多様な内容を含んでいることが明らかになります。

今回の史料解読講座では、江戸市中に発令された町触の中から、生類憐み政策の内容を伝える二点を選びました。政策の歴史的意義については後に掲げた参考文献に当たって頂くこととして、ここでは町触を通じて、その背景となった都市江戸の具体的な様相に目を向けていきましょう。

動物見せ物と蛇遣い

【史料1】は、薬売りが人集めのために行う芸能について、蛇遣いを行っていた者がおり、「牢舎」を申しつけられたことを示し、蛇遣いのほか、犬猫鼠に至るまですべて生類に芸をしつけて見世物にすることを禁止しています。この発令から、生類憐み政策下の江戸で未だ動物を使った見世物が盛んに行われ、人々の耳目を集めていた実態を逆に語っているとみることもできるでしょう。

寛永九年(1632)刊の『尤の草紙(もっとものそうし)』中「うるさき物のしなじな」の項で、酔狂な人、腐ったものの匂い、古い魚の売れ残り、性格のねじけた人等とともに「へびつかひ」が挙げられており、近世初期においてすでに蛇遣いという芸能が存在したことがわかります。もっともこれは京都のことかと思われますが、江戸でも延宝七年(1677)刊行の版本、俳諧集『富士石(ふじいし)』に、「霜寒し渡世の枯野蛇遣ひ」とあります。寒中は蛇の活動が低下するため、蛇遣い達も「渡世の枯野」に入らざるを得なかったというのでしょう。さらに『天和笑委集(てんなしょういしゅう)』には次のように呼び込みの口上が記録されています。

厭ようるさや、てんと気の毒、見る目もうるさし差合ひ知らぬ蛇女、こはし危うし恐ろしき見世物、やれ安き物、僅か六文、しかも宿土産とて油一貝剣の曲、かれこれ都合十五軒。

江戸堺町の様子を活写したこの記述から、怖いもの見たさの観客を引き込み、薬の販売にも繋げようという呼び込みの口上と、町の喧騒(けんそう)が伝わってくるようです。

さてそれでは江戸期の蛇遣いとはそもそもどのような芸だったのでしょうか。朝倉夢声『見世物研究』によれば、「蛇遣いの多くは女子で、笊に大小の蛇十数疋を入れ、それを掴出(つかみだ)しては、首や両手に巻付かせて見せたのである」と記されています。

江戸の見世物について詳述している随筆記録『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』は、蛇遣いが蛇を使いこなす秘訣まで解説しています。

蛇遣いの蛇ははじめに捕へたる時、木綿きれにてとらへ、逆しまにしごけば、鱗(うろこ)の縁にいと細かなる刺(とげ)あるが、皆木綿に着きて落ちる。又口をあけて木綿ぎれを含ませて、堅くつめて引出せば、細なる歯残りなくとれて、蛇は力なくよわるをつかへば自由になるなり。

こうした蛇遣い芸は十七世紀後半の江戸で多くの観客を集めており、生類憐み政策の展開の中でもしぶとく生き延びていたのでしょう。それに止めを刺したのが【史料1】に掲げた元禄四年十月令でした。

ところでこの町触は蛇遣いを標的としたほか、「犬・猫・鼠」に至るまで動物に芸をしつけて見世物とすることを禁止しています。実は、江戸には動物を調教して芸を覚えさせ、これを香具師等に売りつける商人がいました。下に掲げた貞享四年(1687)版『江戸鹿子(えどかのこ)』は江戸の名所・名物・名店等のガイドブックですが、その末尾に、「けだ物芸仕付 湯島天神前 水右衛門」と記されているのがそれです。

江戸鹿子『江戸鹿子』(貞享四年刊)国立国会図書館所蔵

この『江戸鹿子』は江戸の名所ガイドと買い物ガイドの性格を合わせ持つもので、大ベストセラーになります。そのため元禄三年(1690)には菱川師宣(ひしかわもろのぶ)の挿絵を加えた『増補江戸惣鹿子名所大全』として刊行され、さらに寛延四年(1751)、全面改訂版の『再訂江戸惣鹿子新増大全』が刊行されます。しかし、寛政版にはもはや水右衛門の名も、「けだ物芸仕付」の業種も掲載されてはいません。【史料1】の元禄四年令によって、さすがに動物芸のための調教家業は廃業のやむなきに至っていたようです。

釣り愛好者の受難

【史料2】は、元禄六年(1693)八月、町名主らが町年寄奈良屋市右衛門方に呼び出されて仰せ渡された、趣味としての釣りを対象とする禁令です。これは釣りの世界に深く浸っている人々にとって大変つらいものだったでしょう。

江戸は釣り人にとってパラダイスともいえる都市でした。物資流通のため都市の内部まで掘割がはりめぐらされ、岡釣りスポットが無数に出現していました。また江戸湾は潮流も波も穏やかで舟釣りには最適であり、しかも大河の注ぎ込む浅海には大小の洲が形成され、絶好の釣り場となっていたのです。こうした環境に、時間に余裕のある人々が存在すれば、おのずと豊かで深い釣りの世界が形成されていきます。

長辻象平氏によれば、江戸の釣りブームは三期に分けられ、元禄以前の時期には主に武士身分の人々を中心とした第一次ブームが現出していたといいます。そこに出されたのが生類憐み政策であり、元禄六年令でした。当然、おいそれとは引き下がれない武士も出てきます。

宝永(1704―11)の末の頃か、殺生禁断(せっしょうきんだん)=生類憐み政策がとられていた時代のこと。釣り好きの御徒組頭愛久保弥太夫が同僚と連れ立っていつも釣りをしていたことが問題とされ、取調べを受けることになります。弥太夫が同僚に、どのように答えるかと尋ねると、彼は「自分は釣りなどしていない」と言うつもりだと言います。一方の弥太夫自身は、「私ははじめから釣りをしていたと言おう」と話し、それぞれが査問に臨みました。

まずは弥太夫の弁。

御制禁とは存じていたが、若い時から好きなことで、老後にいたってやめられず、公務の合間にはこればかりにかかりきりで楽しみ暮らしている。(生類憐み政策下、釣り針などはどうしているのかとの問いに答えて)私は若年からこのことに熟達しており、釣り針も人の作成したものでは納得できず、当初から自分で手作りし、今では世間で「愛久保流」といって手本にもなっているほどで、購入したことなどない。

見事な開き直りといえるでしょう。

対する同僚の方もなかなかのものです。

自分は釣りは好きではないのでしたことはない。人の言うのは「虚言」であろう。(釣ってきた魚を贈った際の自筆の書状を証拠として突きつけられると、これを嘲笑った上で)いかにも私の筆跡。しかし、ただの贈り物では珍しくないから、釣ってきた魚といい、あるいは手作りの野菜といって風趣に致しなすことは世の常である。魚店から買ってきたといって贈ったのでは身もふたもないこと。それゆえ釣ってきた魚と申した。

このように、「さわやかに」応答したといいます。結果として二人は「揚屋入(あがりやいり)」となります。「揚屋」というのは御家人や陪臣、僧侶などが収容される牢房のことで、小伝馬町の牢屋敷内にありました。しかし、幸いなことに間もなく将軍代替わりとなり、生類憐み政策も転換されて、二人は無事許されたといいます。その後、弥太夫はますます釣り好きに拍車がかかり、他方、同僚の方は一度釣りは好きではないといった以上、二度と竿を手にすることはなかったとか。この話を書き留めた松崎尭臣は「二人ともに柔弱ならざる人にこそ」と感嘆しています。

なお、ここで弥太夫は自分の釣り針作りを誇らしげに語っていましたが、わが国の釣りに関する文献の古典ともいうべき「何羨録(かせんろく)」を紹介した長辻象平氏は、その文献に記録されている三十四種類の釣り針の内、「阿久津弥太夫」とあるのがまさにそれであろうと推定されています。であるとすれば、私たちは釣り禁止令のおかげで、江戸釣りブームの初期を担った練達の釣り師に出会うことができたことになります。

ともあれ、二十四年に及んだ生類憐み政策の時代は、多くの釣り愛好者にも受難の時期をもたらし、そして過ぎ去っていきました。

この後江戸の釣りブームは、さらに広範な人々へと広がりを見せ、一段と成熟を深めていったようです。

「中川釣鱚」の図(『江戸名所図絵』巻十九)「中川釣鱚」の図(『江戸名所図絵』巻十九)

参考文献と引用史料

参考文献

引用史料