明治七年(一八七四)、東京府は内務省勧業寮より、外国輸出用の紅茶製造のため、紅茶製法書を製茶業者へ廻達する旨、布達されました注1。
この頃の政府は中国風の紅茶を試作していましたが、なかなか輸出先の嗜好にあう紅茶ができませんでした。アメリカへは輸出できましたが、ヨーロッパには販路が広がりません。
そこで政府は、インド紅茶の製法を調査するために、勧業寮十等出仕の多田元吉注2を現地に派遣しました。
その後、インド風の紅茶を政府は試作します。明治十一年(一八七八)一月十七日、紅茶製造者を増やすために、内務卿大久保利通は、紅茶製方伝習規則を布達しました注3。この達によって、国内各地に 紅茶伝習所が設置されました。当初は、東京内藤新宿試験場、静岡県静岡、福岡県星野、鹿児島県延岡の四か所でした注4。
規則により、インド風紅茶製法の伝習は、一府県五人以下、年齢は十七、八歳から三十歳以内の茶事篤志者に限りました。
願書のひな型は規則にあるので、東京府内在住の志願者は、ひな形どおりの願書を書いて東京府へ提出します。卒業時には願い出れば免状を交付されました。
明治十一年に、東京にも紅茶伝習所が内藤新宿試験場内に設置されました注5。しかし、伝習所は、翌年には静岡の伝習所に合併されました注6。
内藤新宿試験場とは、明治五年(一八七二)内藤新宿内の旧内藤頼直邸を中心とした場所に開設された試験場です。ここでは、動物や植物の生育、種苗などを試験し、他府県へ頒布を目指していました注7。同試験場は、明治七年(一八七四)一月から大蔵省から内務省に移管され、同十二年五月には宮内省の管轄になりました。現在、その地は新宿御苑として、広く親しまれています 。
各地の伝習所は明治十三年には募集を停止しましたが、卒業者は三年間で合計 六百五十一人に達したそうです注8。明治二十三年(一八九〇)十月には紅茶製方伝習規則も廃止されました。
今回の回議録の簿冊には、袴田瀧三郎という人物からの文書が何枚も綴られています。
袴田は、明治十一年一月に伝習願を東京府へ提出しましたが、東京府には規則の五人を超える願書が届いていました。東京府は定員を超える願書を却下しましたが、定員の外、篤志者四名について、伝習できるように勧農局へ働きかけ、四人は静岡で伝習を受けることが許可されます。その一人が袴田でした。袴田は同年四月から静岡県横内町において伝習を受け、同年七月三十一日に静岡伝習所を卒業し、翌日の八月一日には東京府に戻ってきます。そして、静岡で製造した紅茶六種を東京府へ献納したいと願書を提出します。更に、同年十二月十一日には、免状の交付願を東京府へ提出します。
袴田瀧三郎は、千葉県士族の息子で蛎殻町に寄留していました。十九歳で茶商古川金蔵の下で働き、その間に紅茶伝習所で紅茶製法を学びます。しかしその後、明治十六年に米穀業に転じ、同三十五年には東京米穀業組合副頭取になりました注9。さらに、東京府会議員(明治三十六年~明治四十四年注10)、東京市会議員(明治四十四年注11~大正三年注12)を歴任します。
議員となった袴田が、若い頃に紅茶の製法を学んだ時の行動が、この回議録に記録されていたのです。