資料解説~ 目付の心得書を読む

江戸幕府の作事(さくじ)奉行は、建造物の新築や修繕を担当する役職でした。作事方は奉行を中心に、勘定役などの事務官と、大工や肝煎(きもいり)などの技術者とで構成されます。はじめ作事奉行は建築営繕の一切を管轄していましたが、貞享2年(1685)に小普請方が設けられたことから区分されました。

実際の職務分掌は、享保3年(1718)5月に定められています。それによると、作事方は本丸・西丸の表向、城郭の櫓や多門、その他町奉行屋敷や火消役屋敷など52か所を担当し、小普請方は増上寺や浜御殿、吹上御花畑など53か所を担当することが示されています注1

今回取りあげた「心得書」でも、作事方と小普請方とが別立てに書き上げられており、目付である新見正登は、二つの担当部署の調整役を務めていたことがわかります。

この文書を読み進めていくうえでは、別文書である「御城内御破損御見廻(みまわり)絵図」(新見文書―255、後掲参照)と対照していくと、破損箇所を見廻る順路がわかり、より理解を深めることができます。

今回は、作事方の担当箇所に限りたどってみることにしました。修繕箇所は、おおよそ以下のようになっております。(1)大手門(おおてもん)橋の番所・腰懸(こしかけ)、桜田二重御櫓(やぐら)・瓦塀、三丸境迄続き瓦塀、(2)桜田門橋大番所渡り櫓瓦塀・腰懸、同二重櫓続き瓦塀、(3)下乗橋(げじょうばし)の櫓・腰懸、同続き多門・二重櫓、同瓦塀続き多門、(4)喰違門(くいちがいもん)の二重櫓、(5)御金蔵(おかねぐら)後方の多門、御金蔵・元払会所・本番所惣囲塀、(6)蓮池門(はすいけもん)の三重櫓・大番所続き瓦塀・駒寄(こまよせ)柵、同厩(うまや)、(7)坂下門(さかしたもん)の大番所・土手上瓦塀、(8)中門(なかのもん)の渡り櫓・番所、瓦塀、(9)大番所後ろの多門続き瓦塀、(10)上埋(かみうずみ)渡門の櫓・三重櫓続き瓦塀、(11)玄関前の二重櫓続き左右の瓦塀、同二重出櫓・同渡り櫓・同続き多門などと続いています。

かつて江戸城があった場所である現在の皇居には、大手門と平川門、北桔橋門(きたはねばしもん)の三つの入口があります。そのうち(1)大手門は、江戸城の正門にあたります。大手門の前は広場のようになっており番所や腰懸が設置されていました。「桜田二重御櫓」は、「桜田巽櫓(たつみやぐら)」とも呼ばれ、立ち入り禁止区域となっていますが現存する数少ない櫓です。

(2)内桜田門は、三丸の南側にある通用門で、大手門とならび本丸に登下城する際の関門でした。外桜田門(現在の桜田門)に対して内桜田門とも呼ばれます。続いて、(3)三丸より二丸に入る際の正門を「大手三之門」(おおてさんのもん)と呼び、その入口手前の堀にかかる橋が下乗橋です。南に位置する櫓門は江戸城の城門の中でも最大規模で、門を入った所には城内の最も重要な警衛所として百人番所(ひゃくにんばんしょ)が設けられました。

(4)喰違門は、現在の東京都千代田区紀尾井町の中央南側に位置した外曲輪(そとぐるわ)の見付門です。清水坂(しみずざか)から紀伊藩の中屋敷に向かう喰違土手の前にあたることに由来します。次に見えるのは、(5)江戸幕府が所有していた金銀貨幣の貯蔵ならびに出納機関である御金蔵です。管理を担った御金奉行は、元方(もとかた)と払方に分かれて、収納と支払いを担当しました。

(6)蓮池門は、蓮池堀と蛤(はまぐり)堀に挟まれた連絡路に設けられた関門です。この三重の櫓は、「富士見櫓(ふじみやぐら)」を指し、明暦の大火で焼失しましたが、万治2年(1659)に再建されました。その後、関東大震災などで被災しますが復元され、現在でも坂下門右手側に見ることができます。(7)坂下門は、西丸大手門と内桜田門との間にある関門です。文久2年(1862)正月15日に老中安藤信正が襲撃された事件(坂下門外の変)で知られるところです。

(8)中門は、下乗門から中雀(ちゅうじゃく)に至る中間の関門です。この門も明暦の大火で焼失しましたが何度か再建され、平成17年(2005)から同19年(2007)にかけて実施された解体修復工事の際には、「宝永元年甲申四月日 因幡伯耆両国主松平右衛門督吉明築之」という刻銘のある石が発見されました。それにより、鳥取藩第3代藩主・池田吉明(よしあき)によって再建されたことがわかっています。中門を過ぎると、(9)大番所が見えます。ここには、将軍直轄の軍事集団が詰めていたとみられ、江戸城西丸や二丸の警備のほか、幕府が直轄する大坂城や二条城の警備にあたる在番を務めていました。続いて、(10)上埋門は、本丸の南側にある門で、東側には書院二重櫓があり、北東に進むとようやく(11)本丸玄関に至ります。

以上のように、広大な江戸城に設置された建造物を、担当者である作事方役人に目付がおそらく随行して巡回し、一つ一つ確認していく作業は、とてつもない重労働だったかと推測されます。目付新見正登は、作事方と小普請方が担当する箇所が重複しないように調整する重要な役割を担っていたのです。

江戸城およびその近辺を描いた絵図は、多種多様な情報を含み、数多く伝来していますが、目付自らが職務のためにランドマークを図示したこの図面は、目付ならでは絵図として貴重な資料といえるでしょう。

御城内御破損御見廻絵図(新見文書―255)を一部拡大し、執筆者が加筆。御城内御破損御見廻絵図(新見文書―255)を一部拡大し、執筆者が加筆した。
主要参考文献
  • 大石学編『江戸幕府大事典』(吉川弘文館、2009年)
  • 池享他編『みる・よむ・あるく 東京の歴史4~6 地帯編1~3』(吉川弘文館、2018、19年)
  • 西木浩一・小粥祐子監修『図説日本の城と城下町(3)江戸城』(創元社、2022年)
資料情報
  • 御目付心得書(新見文書)(請求番号 御目付心得書(新見文書) (請求番号:江戸明治期史料 新見文書―233) 情報検索システムへのリンク
  1. 『東京市史稿』皇城篇第2―592(東京市役所、1912年)、同産業篇第11―145(東京都、1967年)

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