今回取り上げた資料は、築地の外国人居留地内の外国人専用旅館であったホテル館が、明治元年(1868)8月9日に、鉄砲洲(てっぽうず 現中央区明石町)にあった東京運上所に提出した文書の写しです。
東京運上所とは、東京における海外貿易の開始=東京開市のために設置された外国官の役所で、当時の資料では「鉄砲(炮)洲御役所」と記されています。税関業務の他に、外国人居留地の管理や、外国人の出入国管理、応接や警衛など、幅広い業務を担っていました。開市は11月でしたから、その準備に追われていた時期の文書ということになります。
さて、文書の冒頭に線で囲まれた部分があります。これはこの文書の元々の形態を表していると考えられます。四角い枠の右端に棒のような線が二本縦に並んでいますが、これは紙縒り(こより)などで綴じたものだということを示しています。
枠の真ん中に「鐘打方書上」とあるのが文書の表題、左下の「差配人代善兵衛」が文書を提出した人物です。表題の右側上下には人の名前が並んでいて「印」と記載があり、元の文書には押印があったことがわかります。名前の間にこの案件の処理案が記されており、届出の内容が了承されています。
名前の面々は、鉄砲洲御役所=東京運上所で開市御用を務めていた役人たちです。
上に並んでいるのは、元佐賀藩士で英語に堪能であった山口範蔵(はんぞう)注1、元幕臣で神奈川奉行を務めた水野千波注2、同じく幕臣で開成所奉行並を務めた杉浦武三郎注3です。いずれも外国開市御用掛の任にありました。
下に並んでいるのは、その配下にある役人たちで、右から開市御用掛組頭森新十郎、同調役原左右兵衛・小花作之助・斎藤源之丞、同調役並村上由郎、同調役並格小林次郎助です。彼らはいずれも元幕臣で、江戸幕府の洋学教育研究機関であった開成所のメンバーでした。
山口以外は全て旧幕臣であり、初期の外交実務は、主に旧幕府の人材に支えられていました。
画像(上)は、外国人居留地の様子を描いた錦絵です。中央に波止場があり、その右手にある黒い建物が東京運上所です。波止場の左手、一段高くなった岸壁上に、屋根の上に塔の突き出た特徴的な建物が見えます。これが「ホテル館」です。ホテル館は江戸幕府によって外国人の宿泊のために計画されましたが、完成は幕府瓦解の後となってしまいました。建設を請け負い、完成後は経営も担っていたのが清水喜助(二代目)、現在の清水建設株式会社の礎を築いた人物です。
さて、屋根の上に突き出た塔の中には何やら緑青色の鐘らしきものが見えますね。今回取り上げたのは、この鐘をどんな風に打っていたかを、差配人喜助の代理人善兵衛が届け出た文書なのです。
これには、鐘の打ち方が次のように書かれています。
時刻 (現代の時刻) 鐘を打つ数
明六時 (午前6時頃) 6箇
同 半 (午前7時頃) 7箇
朝五時 (午前8時頃) 8箇
同 半 (午前9時頃) 9箇
昼四時 (午前10時頃) 10箇
同 半 (午前11時頃) 11箇
同九時 (正午12時頃) 12箇
同 半 (午後1時頃) 1箇
同八時 (午後2時頃) 2箇
同 半 (午後3時頃) 3箇
夕七時 (午後4時頃) 4箇
同 半 (午前5時頃) 5箇
なんと当時日本で用いられていた時刻の数ではなく、現在わたしたちが使っている西洋式の時刻数を打っているではありませんか!
よく考えてみれば外国人が宿泊するホテルですから、西洋時計を持っている彼らに知らせる時の鐘を日本の時刻で打つわけがありませんね。この文書からはわかりませんが、もしかすると西洋時計で時刻も計っていたかも知れません。
当然ですが、鐘の音はホテルだけでなく、居留地を越えてその周りで暮らしている日本人の耳にも届きます。聞きなれた「時の鐘」とは全く違う数の鐘音を聞いて、とまどう当時の人々の姿を想像してみてください。
文書には東京運上所からの「御尋」により申し上げると書かれているだけで、詳しい経緯はわかりませんが、これまでとは違う打ち方は、居留地を管理する運上所でも問題になったのでしょう。
たった一通の文書ですが、これが残ったおかげで、150年前の東京の空に響いた西洋の「時の鐘」を知ることができるのです。
なお、数年後の明治5年(1872)11月、明治政府は太陽暦の採用を公布します。これにより、同年12月3日を太陽暦に換算して明治6年1月1日とし、鐘の打ち方も変更されました注4。